小川光氏
小川 光氏(おがわ みつうじ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての大名。豊後永山城(丸山城)主。日田藩の初代藩主ともする。通称は左馬助[3]、壱岐守。 略歴慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属したために、祐忠・祐滋(良氏)は改易となるが、祐忠の正室の弟 にあたる一柳直盛(監物)の奔走もあって、慶長6年(1601年)に豊後国日田郡2万石に入領した。 既存の日隈城には毛利高政が城代を置いていたため、日田郡夜開郷永山[4]に新しく丸山城を築いた。城が完成する間の3年間は日田郡友田村丸山を居城とした[5]。この丸山の所在については諸説あり、現在の北友田三郎丸にある星隈公園(三郎丸砦跡[5])とする一方、岡為造著の『日田郡史』(1915年)では現在の日田市光岡岳林寺の裏手の山としている[5][3]。 慶長15年(1610年)8月に病死した。光氏の死後、小川家は無嗣断絶となるが、元和2年(1616年)8月に石川忠総が6万石で入封するまでの間、城地は一族の小川喜助と小川又右衛門が管理した。 光氏の知行について石川氏転封の寛永16年(1639年)に、旗本の小川正長[8](藤左衛門)と小川氏行[9](九左衛門)が、幕府直轄地日田、玖珠、速見郡内約4万1,800石の代官として着任した。慶安元年(1648年)に氏行が西下の途中で事故に遭って死亡。明暦元年(1655年)に正長も死亡し、氏行の子息の行広(又左衛門)と、正長の正久(藤左衛門)が日田代官を務めている[10]。しかし寛文5年(1665年)に支配所で農民訴訟(一揆のこと)が起きたことで、両名とも家禄没収となった。 この日田代官の小川氏と小川光氏との関係は判然としないが、小川光氏の日田入領は、代官としての赴任であるという説が定説となっている。 一方で、中野等(九州大学院教授)は慶長6年9月7日(グレゴリオ暦1601年10月2日)付けの「豊後国内御知行方目録」を示して、光氏は代官ではなく大名であった、すなわち日田領は小川氏の知行地であった可能性を指摘している[11][12]。 脚注
参考文献
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