正親町三条公豊
正親町三条 公豊(おおぎまちさんじょう きんとよ、旧字体:正親町三條 公󠄁豐)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての公卿。内大臣・正親町三条実継の子。正親町三条家7代。官位は正二位・内大臣(北朝)。号は後三条。後三条内大臣、称名院入道などと呼ばれた。 経歴初名は公景(きんかげ)。元弘4年(1334年)従五位下に叙位。建武4年/延元2年12月(1338年1月)従五位上に昇叙し、康永4年/興国6年(1345年)侍従任官。 貞和3年/正平2年(1347年)右近衛少将に任じられ、貞和4年/正平3年12月(1349年)に従四位上に叙される。下野権介、右中将を歴任し、文和2-3年/正平8-9年頃(1353–54年)に正四位下・美濃介に叙任。文和4年/正平10年(1355年)参議に任じられ公卿に列す。 文和5年/正平11年(1356年)従三位・備前権守に叙任。延文6年/正平16年(1361年)権中納言に任じられる。康安2年/正平17年(1362年)正三位、貞治3年/正平19年(1364年)従二位に陞叙。2年後には権大納言になり、応安3年/正平25年(1370年)正二位。その後はしばらく出仕を止めていたが、南北朝統一後の応永2年(1395年)9月に廟堂に復して内大臣に任じられる。その2か月後に出家、法名を皎空(こうくう)とした。 応永13年(1406年)6月に薨去、享年74。 官歴
系譜脚注参考文献
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