櫻井房記
櫻井 房記(さくらい ふさき、1852年9月28日(嘉永5年8月15日) - 1928年(昭和3年)12月12日)は、明治から昭和初期にかけての日本の教育者。 学位制度草創期の理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)初代所長、第五高等学校第5代校長。 経歴1852年9月28日(嘉永5年8月15日)、櫻井甚太郎・八百夫妻の長男として加賀国加賀藩金沢馬場一蕃丁に生まれる[1]。父・甚太郎は先妻との間に2人の男子がおり[1]、2人の異母兄を含めれば房記は甚太郎の三男にあたる[1]。母・八百は甚太郎の後妻[1]。1869年(明治2年)、藩費生として開成学校(後の大学南校、現・東京大学)に入学。1870年(明治3年)、大学南校で貢進生に選ばれる。1878年(明治11年)12月24日、東京大学仏語物理学科第1期卒業。1881年(明治14年)、東京物理学講習所の初代所長となる。1882年(明治15年)、イギリス・フランスへ留学する[2]。1883年(明治16年)、高等師範学校教授となる[2]。1885年(明治18年)、第1回中等教員検定試験の学力試験委員となる。第五高等学校へ赴任する第4回まで、引き続き学力試験委員を務める。1890年(明治23年)、第五高等中学校(1894年第五高等学校に改称)教授となり[2]、東京物理学校の教師を辞する。1895年(明治28年)、第五高等学校教頭となる。同校の新任教師であった夏目漱石に、イギリス留学を薦める[3]。1897年(明治30年)、工学部初代主事となる。1898年(明治31年)、夏目漱石に、加賀宝生流の能楽を教える。1900年(明治33年)4月、第五高等学校校長となる[2]。1907年(明治40年)1月、第五高等学校校長を辞する。1908年(明治41年)、大韓帝国皇太子の教育係となる。1917年(大正6年)4月、東京物理学校の主事となる。 家族・親族弟は造船学者の櫻井省三[4]、化学者の櫻井錠二[4][5](錠二の五男・櫻井季雄も化学者[6])。 房記は妻との間に2男3女をもうけた。長男は実業家で三菱重工業社長の櫻井俊記[2]、俊記の妻は志村源太郎の姪[7]。長女は建築家の藤村朗(華厳滝で投身自殺した旧制一高生・藤村操の弟)に嫁ぎ[2][8]、次女は実業家の岩崎輝弥(三菱財閥の2代目総帥・岩崎弥之助の三男)に嫁いだ[2][9][10]。 栄典著作
脚注
参考文献
関連文献
外部リンク
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