柴田義董柴田 義董(しばた ぎとう、安永9年〈1780年〉 - 文政2年4月2日〈1819年4月25日〉)は、江戸時代後期の四条派の絵師。義董は名で、字は威仲、号は琴緒、琴海、琴江など。通称喜太郎、戯れに喜多楼。 略歴備前国邑久郡尻海字奥谷(現在の岡山県瀬戸内市邑久地区)で廻船業を営む奥屋十兵衛慰徳の子として生まれる。尻海は錦海湾の湾口に位置する古くからの港町で、江戸時代には備前米の積出港として栄え、廻船問屋が軒を連ねていた。父は同郡本庄村の出身で、柴田氏を継ぎ、後に岡山京橋を独力で架けたと伝えられるほどの富豪だった。 幼少から呉春に画法を学び、富小路四条北に居を構えている。若くして四条派の画法を究め、人物・花鳥・走獣など幅広い画域を誇ったが、特に人物画を得意とした。洛中でも「花鳥は景文、山水は豊彦、人物は義董」と評された。同じ岡山出身の岡本豊彦が、呉春の作品全てを模して自作の参考にしたと伝えられるのに対し、義董は記憶力が抜群で粉本を用いず、古画の写しなども少しも蓄えなかったと記されており(『古画備考』田中千春話)、早熟の天才型だったと思われる。 京都を本拠地とする一方、故郷の岡山でも活躍し多くの作品が残る。40歳で死去し、下京の長講堂に葬られたとされるが、現在は確認できない。門弟に子で岡本豊彦に師事した柴田義峰、白神皞々、小野雲鵬、大原呑舟、片山信成などで、倉敷周辺出身者が多い。他に鳥取藩家老の陪臣だった青木図書がおり、そこから菅盛南、菅楯彦と画系が続いている。 代表作
脚注
参考資料
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