林義端林 義端(はやし ぎたん、生年未詳[1] - 正徳元年5月8日(1711年)[1])は、江戸時代中期の儒学者、小説家、版元および本屋経営者。浮世草子の作家として知られる。字は九成、通称は九兵衛、号は文会堂。 伊藤仁斎の門下として儒学を学び[注釈 1]、京都で書肆(本屋)「文会堂」を経営した。怪異小説『玉櫛笥』(たまくしげ)・『玉箒子』(たまははき)を著し、京都の書肆経営者の中では儒学者として名声が高かった[2]。 生涯義端はもともと両替商を家業としていたが、貞享2年(1695年)に伊藤仁斎の家塾・古義堂に入門すると[3]、元禄2年(1689年)までに両替商を辞めて書肆に転業する[3]。京都東洞院通夷川上町にて書肆「文会堂」を開業した。元禄4年(1671年)5月に伊藤東涯(仁斎の長男)から『文会堂記』を与えられ宇る[3]。東涯は同書にて義端の人格や好学を称え、義端の書肆経営は利益のためでなく学問の普及と啓蒙であり、決して賤しいものではないとの旨を述べている。書肆としての活動は不活発であったが、文会堂林九兵衛方から出発された書籍は、義端に関係のある怪談集を除いては、全てが学問書や啓蒙書であった。 元禄4年11月に浅井了意の著した『狗張子』の序文を記し[3]、元禄5年(1692年)正月に同書を刊行する[3]。元禄6年(1693年)『玉櫛笥』前半3巻までを著し[3]、元禄8年(1695年)秋に『玉櫛笥』後半4巻を著す[3]。同年2月、詩文作法書である『文法授幼抄』を著し刊行する[3][4]。同年11月には『玉櫛笥』に序文を記し、同月に刊行する[2][3]。元禄9年(1696年)12月、『玉櫛笥の続編を集めた『玉箒子』を刊行する[3]。ただし、同書は文会堂林九兵衛方からは出版されなかった[2]。義端は、中国小説、特に『剪灯余話』のような志怪小説に心惹かれるところがあり、当初は中国小説の翻案を志していたと考えられるが、「倭詞の俗習に習ふて文を裁する所以を知らず」という理由により、『玉櫛笥』と『玉箒子』の両書は、今日でいう浮世草子という形式により刊行された。 『玉櫛笥』は30話あり、義端の深い知識に裏打ちされた教訓性・啓蒙性が強く、怪談をあくまで怪談とする現実性が強いものである。また、『玉櫛笥』は17話あり、さらに怪談が現実によって解決し、心理的幻影にあるとするなど現実的な展開を見せている。義端の怪異小説は、現実意識に基づく怪談認識によるものであった[2]。 元禄11年(1698年)『扶桑名賢詩集』を刊行する[3]。元禄14年(1701年)、詩文作法書である『文林良材』を刊行[3]。本書は義端の著作と考えられている[3]。 宝永元年(1704年)『扶桑名賢文集』を刊行する[1][5]。どちらも、伊藤仁斎・東涯父子の詩文が中心であった[4]。この頃、京都に来ていた岡島冠山と出会い討論し、『英烈伝』と『水滸伝』の翻訳を依頼する[1]。宝永2年(1705年)3月、義端が序文を記し『通俗皇明英烈伝』(『通俗元明軍談』)が林九兵衛ほか合板で刊行される[1][2]。また、同年に刊行された中村昂然が著した『通俗唐玄宗軍談』の校正も「林九成」名で行っている[6]。 宝永3年(1706年)、徳山藩主・毛利元次の編んだ『徳山名勝』を板元として刊行する[1]。宝永4年(1707年)、伊藤仁斎の追悼集である『古学先生碣銘行状』の跋文を記し[1]、文会堂林義端にて刊行する。宝永5年(1708年)春、伊藤東涯・梅宇兄弟と同行し、大坂において参勤交代の途にあった元次に謁見する[1]。宝永5年(1708年)12月、元次の『塩鉄論』を板元として刊行[1]。宝永7年(1710年)、徳山の広範囲な雑詠を集めた元次の『徳山雑吟』に跋文を記して刊行している[1][4]。 義端は正徳元年(1711年)5月8日に死去した[1]。岡村冠山の翻訳した『水滸伝』は、義端の死後に『忠義水滸伝』として第1回から第10回が享保13年(1728年)に林九兵衛板として出版され、第11回から第20回が宝暦9年(1759年)に林九兵衛とその一族であろう林権兵衛の合板で出版されている[2]。 おもな著作
関連論文
脚注注釈出典
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