松村介石
松村 介石(まつむら かいせき、本名読み:すけいし、1859年11月9日(安政6年10月15日) - 1939年(昭和14年)11月29日)は、日本のプロテスタント系新宗教の指導者。植村正久、内村鑑三、田村直臣と共に、キリスト教界の四村と呼ばれた。道会の創設者。一時期養家の森本姓を名乗る[1]。別名に市谷隠士、足堂、容膝堂主人[2]。昆虫学者松村松年の実兄。いとこの子に橋本関雪がいる[3]。 生涯初期安政6年(1859年)に播磨国明石藩士の家に生まれる。祖父・橋本文水、父・松村如年は武士で漢学者であったため、幼少の頃より『大学』『中庸』はじめ、四書五経に親しむ。明治3年(1870年)11歳のとき上京し、安井息軒の門に入塾するが半年で辞めて神戸に帰郷する。 入信明治7年(1874年)に15歳で神戸在住のアメリカン・ボードの宣教師J・L・アトキンソンに学び、聖書に触れる。明治9年(1876年)17歳でさらに横浜に行き、アメリカ・オランダ改革派教会の宣教師ジェームス・バラの塾に学ぶうちキリスト教に入信し、明治10年(1877年)住吉町教会で洗礼を受ける。1882年頃、神経衰弱に陥るが、生涯を伝道に捧げることを誓った。築地大学校舎監をつとめながら、築地の東京一致神学校で学ぶ。しかし、外国人宣教師との折り合いが悪く退学することになり、バラとも袂を分かつことになる。 牧師時代そこで、明治15年(1882年)12月に日本組合基督教会高梁教会の牧師に就任。明治16年(1883年)には沢山保羅に按手礼を受けて、正式に日本組合教会の牧師になる。明治18年(1885年)、大阪一致教会の牧師より王陽明の「啾啾吟」を教えられ甚く感銘し、それ以来王陽明の思想に傾倒した。 新聞記者時代明治20年(1887年)より東京の『基督教新聞』、『福音新報』の主筆として活動する。この頃から、自由主義神学の影響を受けて、正統派神学の基督教新聞にとどまることができず、主筆を辞任する。 教育者時代明治20年の内に、押川方義の推薦で、山形英学校の教頭になり、また加藤勝弥に招かれて、内村鑑三の後任として、北越学館の教頭に就任する。明治22年1889年、北越学館での教育実践をもとに、代表作『立志之礎』を刊行。その後、キリスト教青年会館講師を5年間勤めた。その活躍から、内村鑑三、植村正久、田村直臣と共に、明治キリスト教界四村の一人と呼ばれた。 明治32年1899年暮れから、鎌倉に移り、本格的に著述活動を始め、『修養録』を刊行。日本で最初の「修養読本」であり[4]、青年層に広く読まれた。 一心会明治38年(1905年)には、一生を純宗教に捧げることを誓う。明治40年(1907年)に、政治家の渡辺国武らの支援を受けて新たに「一心会」と称する教会を開くことになった。これは、キリスト教の「高等批評」を初め、古今東西の宗教や歴史を研究の結果、「道は一なり、すべての宗教道徳の根本義は、信神、修徳、愛隣、永生の四綱領に帰する」と確信、今後の時代に合った万人の宗教をめざし、キリスト教、神道、儒教、老荘、仏教を包含した混交宗教である。松村は自ら「儒教的キリスト教」と言うべきであるとしている。 日本教会その後、「日本教会」と改称し、キリスト教の一新派として布教を開始した。1907年(明治40年)ユニテリアンの村井知至が松村に協力を始める。[5]明治41年に1908年5月に、今日も続く機関誌『道』を創刊する。ついで、政界、教育界、宗教界、実業界から人材を集めて「道友会」を結成する。明治42年4月、第三回道会入会式から洗礼をやめ、代わりに宣誓と署名捺印をした。 道会1912年(明治45年)、「日本教会」を「道会」と改称、大倉孫兵衛、森村市左衛門ら財界人の援助も受けて宣教活動を進めた。震災後の1915年(大正4年)、松濤にあった鍋島直映侯爵の斡旋を受けて東京渋谷神山に土地を購入し、道会本部事務所を新築、移転。同敷地内に拝天堂の建設にもとりかかり、翌1916年(大正5年)12月に竣工、青年知識人が多数会員になった。翌1917年(大正6年)献堂式が行われ、同地に青年・学生のための寄宿舎「神山寮」も新築した。 晩年昭和11年(1936年)、肺炎を起こしたのを機に会長を辞し顧問となる。昭和14年(1939年)11月29日、動脈硬化により80歳で逝去。多磨霊園に眠る。 人物像
主な著書
脚注出典
参考文献
関連項目外部リンク |
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