松村松年松村 松年(まつむら しょうねん、1872年4月12日(明治5年3月5日) - 1960年(昭和35年)11月7日)は、日本の昆虫学者。北海道大学名誉教授。理学博士、農学博士。日本の近代昆虫学の基礎を築いた先覚者で、「日本昆虫学の祖」と称される[1]。日本産昆虫の和名の命名法を創案するとともに、日本産昆虫約1,200種の命名者である[2]。教育者としても多くの昆虫学専門家を育成し、1898年(明治31年)に著した『日本昆虫学』は、日本人による近代昆虫学の最初の単行書として知られる[3]。 経歴兵庫県明石郡大明石町(現在の明石市)に漢学者・松村如年(如屏)の3男として生まれる[4]。兄に画家で発明家の松村竹夫、キリスト教伝道者の松村介石、叔父の孫に橋本関雪がいる。 1884年(明治17年)、大阪川ロ・英和学舎(現・立教大学)入学[5]。1885年(明治18年)6月に退学し、同年9月に、京都・同志社英学校に入学。のち退学し、上京する[4][6]。 1886年(明治19年)8月、明治学院予備校に入学し、1887年(明治20年)6月、札幌農学校予科第3級に入学[4][6]。1888年(明治21年)1月、札幌農学校に入学。当初は工科で学ぶが昆虫学を志し農科に移る。昆虫学は橋本左五郎に師事し、在学中の校長は新渡戸稲造であった。 1895年(明治28年)7月同校卒業(第13期)。同校研究生となり、1896年(明治29年)に札幌農学校助教授に就任[7][4][6]。 1899年(明治32年)5月からドイツ・ベルリン大学やブダペストに留学し、1902年(明治35年)10月に帰国。札幌農学校教授となる。1903年(明治36年)理学博士となる。 1907年(明治40年)に札幌農学校の東北帝国大学移行に伴い東北帝国大学札幌農科大学教授に就任。1918年(大正7年)に札幌農科大学の北海道帝国大学独立に伴い北海道帝国大学農科大学教授となり1934年(昭和9年)に退官するまで昆虫学教室を主宰した。1919年(大正8年)農学博士となる。 1950年(昭和25年)に学士院会員、1954年(昭和29年)に文化功労者となる。1959年(昭和34年)に明石市名誉市民。1960年(昭和35年)勲一等瑞宝章を受章。名前の松年の読みは、初めはマツトシの名を用いたが、後に自らショウネンを用いた[4]。 日本の近代昆虫学を築いた人物であると評され、日本に生息する昆虫の命名法(和名)を創案した。学名に「Matsumura」とつく昆虫も数多い。1898年(明治31年)初版の『日本昆虫学』、1904年(明治37年)から始まる『日本千虫図解』シリーズは兄の松村竹夫の昆虫図とともに評価を得た。1926年(大正15年)に創刊した昆虫学雑誌『Insecta Matsumurana』は2022年現在においても刊行されている[8]。 北海道大学の教授を務めていた際に住んでいた札幌市北8条西5丁目の家は、2023年現在九州料理店「ぶあいそ 別邸」として使われている。 墓所は雑司ヶ谷霊園にあり、布袋の像の形をしており、布袋塚と刻まれている。天保十二年の銘がある。 母校である立教学院校友会の顧問も務め[5]、1928年(昭和3年)に設立された立教学院後援会でも顧問を務めた[9]。立教学院校友会北海道支部会の支部長も務め、会合では毎回雄弁に語った。参加者たちは松村博士の一流の世相の観察にただ感嘆するばかりであったという[10]。 栄典著書
脚注
関連項目
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