松平親義松平 親義(まつだいら ちかよし、1904年(明治37年)8月16日[1] - 1968年(昭和43年)3月16日[1][2])は、昭和期の法学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 経歴子爵・松平親信の長男として生まれる[1][3]。父の死去に伴い、1915年(大正4年)1月11日、子爵を襲爵した[1][3][4]。 1925年(大正14年)学習院高等科を卒業し[3]、1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部を卒業[2][3][5]。1930年(昭和5年)陸軍省嘱託となる[2][3][5]。以後、拓務省嘱託、貴族院事務局嘱託、外務大臣秘書官付嘱託などを務めた[2][3][5]。 1941年(昭和16年)10月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[6][7]、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。この間、財産税委員会委員、中央株式等評価委員会委員を務め、また、貴族院の大日本帝国憲法改正の研究会会員となり、日本国憲法制定に関わった[2][5]。 その後、大分県に移り、杵築家庭裁判所調停委員、大分地方裁判所調停委員、大分大学学芸学部教授、同大附属中学校長、日本国際連合協会大分県常任理事、大分県地方労働委員会委員、大分県立芸術短期大学講師などを務めた[5]。 著作
親族脚注参考文献
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