松平 親俊(まつだいら ちかとし)は、戦国時代の三河国の武将。福釜松平家3代当主。通称は三郎次郎[1]。
生涯
松平親次の子。松平広忠、徳川家康に仕え、各地の戦いに従事して軍功を立てたという[1]。
天正3年(1575年)、長篠城主・奥平貞昌(のちの奥平信昌)が徳川家に降伏すると、徳川家から派遣されて長篠城に入り、籠城戦を戦うことになる(長篠の戦いも参照)[2]。
天正9年(1581年)6月、家康が遠江国二俣城に進発した際に同行する[1]。しかし、「鳥羽山の御陣所」(鳥羽山城)にて急病を発し、家康自らが薬を処方した上、福釜に帰された[1]。同年7月12日死去[1]。
『寛政譜』によれば、初代親盛から4代康親までは福釜の宝泉院を葬地としたという[3]。現代では宝泉院の西100mほどの場所にある「松平墓地(福釜城主墓域)」に、初代親盛から5代康盛[注釈 2]までの福釜松平家歴代の墓が移されている[4][注釈 3]。宝泉院には福釜松平家初代親盛・2代親次・3代親俊の肖像画があり、安城市指定の文化財となっている(指定名は「絹本著色 福釜松平三代像」)[2]。
系譜
『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、はじめ酒井忠次の四男・松平久恒(甚三郎)を養子に迎えた。しかし、その後「ゆへありて」実家に帰った[1]。ただし久恒はその後も「松平甚三郎」を称しており、その子孫は出羽庄内藩酒井家の重臣として続くことになる。
実子の松平康親が跡を継いだ。康親はまだ幼年であった(「いまだいとけなし」)が[注釈 4]、型通りの家督相続が認められたと記されている。
脚注
注釈
- ^ 『寛政譜』では「庶流のたてまつる家譜」による補足情報として、のちに右京亮と名乗ったことが記されている[1]。
- ^ 『寛政譜』によれば康盛は江戸牛込の光照寺に葬られた[1]。
- ^ 初代親盛から4代康親までの墓石は、明治時代に福釜村長の杉浦源右衛門によって建立されたという[4]。
- ^ ただし、『寛政譜』に記された康親の没年と享年からの逆算では15歳となる[1]。
出典
参考文献
外部リンク