松平康親 (福釜松平家)
松平 康親(まつだいら やすちか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、江戸幕府旗本。福釜松平家4代当主。 生涯天正9年(1581年)、父の親俊が死去した[1]。康親はまだ幼年であった(「いまだいとけなし」)[注釈 2]が、型通りの家督相続が認められ、徳川家康に仕えた[1]。 天正18年(1590年)、徳川家康が関東に入国した際に、下総国香取郡・武蔵国多摩郡で若干の知行地を与えられた[1]。慶長元年(1596年)に大番頭となるが、のちに辞職[1]。慶長5年(1600年)の関ケ原の合戦後、福釜の旧領に帰らせた[1]。 慶長10年(1605年)8月7日、従五位下に叙せられ筑後守に任じられるとともに、家康の偏諱を与えられて「康親」と称する[1][注釈 3]。この由緒から、子孫も諱に「康」の字を用いた[1]。この慶長10年より伏見城番を務めた[1]。 両度の大坂の陣にも従軍した[1]。元和3年(1617年)2月23日、福釜において死去、51歳[1]。 『寛政譜』によれば、初代親盛から4代康親までは福釜の宝泉院を葬地としたという[2]。現代では宝泉院の西100mほどの場所にある「松平墓地(福釜城主墓域)」に、初代親盛から5代康盛[注釈 4]までの福釜松平家歴代の墓が移されている[3][注釈 5]。 脚注注釈出典参考文献
外部リンク
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