松平 家乗(まつだいら いえのり)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。大給松平家6代当主。徳川家康の関東入部時に大名(上野国那波藩)となり、関ヶ原の合戦後に美濃国岩村藩主に転じた。官位は従五位下・和泉守。
生涯
天正3年(1575年)、大給松平家5代の松平真乗の長男として、三河国大給城で生まれた[1]。天正10年(1582年)、父の真乗が死去したため、8歳で家督を継ぐことになった[1]。
天正12年(1584年)の長久手の戦いに際しては、家乗が幼少であったために、家老の松平近正が代理として大給松平家を率いて参加し[1]戦功を挙げた。また同年、尾張の蟹江城・前田城攻めの蟹江城合戦で滝川一益が立て籠った時には、家臣の河合帯刀が奮戦して大給松平家が功を挙げている。[1]。
天正15年(1587年)、13歳で徳川家康の前で元服し、偏諱を受け家乗と称した[1]。
天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると、上野国那波郡内に1万石の所領を与えられ、那波藩[1]が成立した。なおこの時、家老であった松平近正が家康の直臣に取り立てられている[1]。
天正19年(1591年)、家康の奥州への出陣に供奉した。
家乗は那波に父祖の菩提寺として雄山伝英和尚を招いて、久昌山盛巌寺を開創した[注釈 2]。
慶長元年(1596年)、従五位下・和泉守に叙任された[1]。当時家康の家臣で諸太夫は10人であったが、その一人に加えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては、三河国吉田城の守備を務めた[1]。これについて、はじめ吉田城守備を命じられた家乗は、旗本の先駆を務めたいと家康に請うたが、家康は吉田城が尾張国知多郡に通じる「軍監の通路」であり枢要の地であるからという理由を示し、重ねて吉田城守備を命じたという[1]。
戦後は家康の命を受け、伊勢国桑名城を攻めて守将を降ろした[1]。
慶長6年(1601年)正月、1万石を加増の上で美濃岩村藩の初代藩主となり、恵那郡・土岐郡内で2万石を領する大名となった[1]。この時、御礼を言上するために駿府城へ赴き家康に拝謁する際に、永井右近奏者として敷居の外にあったが、家康から「内に入れよ」と仰せられたので、敷居を越えて拝謁した。
岩村藩主となると、上州那波にあった父祖の霊廟で菩提寺の盛巌寺を岩村城下に移し、阿木村の30石を寺領として附した。また岩村城の北麓に、浄蓮社を建てて久翁山 龍巌寺(龍岩寺)も上州那波から移し、富田村の50石を寺領として附した。
慶長19年(1614年)2月19日死去、40歳であった[2]。久翁山 龍巌寺(龍岩寺)内の墓地に埋葬された[2]。
家乗は、人となり剛正で勤検であった。事をなすには法度あり、華麗を好まず、細行を忽にせず、上に事えては忠を喝し、母に事えて孝。下に御するに仁を以てし、民に臨んで恵を施したので城下はよく治まったという。
菩提寺と墓所
寛永15年(1638年)、2代藩主の松平乗寿が浜松藩へ転封となると、岩村にあった龍巌寺(龍岩寺)は、その伽藍を残したまま浜松へ移った[2]ため、家乗の墓は岩村に残されたままとなった。
寛永15年(1638年)、次に岩村藩主となった丹羽氏信は、龍巌寺(龍岩寺)の伽藍を受け取って、一色丹羽氏の菩提寺の妙仙寺を、尾張の岩崎城下から移した。元禄15年(1702年)、丹羽氏音が越後高柳藩に移封となると、妙仙寺も岩村を去って越後高柳へ移った。
次に乗政流大給松平家の松平乗紀が小諸藩から岩村藩に移り、妙仙寺の伽藍を受け取って、菩提寺の乗政寺を信濃の小諸城下から移した。すなわち家乗の墓がある場所は、乗政寺の境内となった。
明治4年(1871年)の廃藩置県の際に乗政寺は廃寺となり、取り壊されたため伽藍は残っていないが、その跡地には数代の岩村藩主とその家族や重臣の墓が残っており、大名墓地(乗政寺墓地)と呼ばれている。
系譜
父母
正室
子女
注釈
- ^ 『寛政譜』には「弾正某が娘」とある[1]。
- ^ 山号及び寺号は、松平家乗の父真乗の法号「梅香院殿盛巌道翁大禅定門」、祖父松平親乗の戒名「空源院殿久浄昌大居士」に因む。
参考文献
- 『岩村町史』 十五 岩村藩主時代 1 松平氏(大給本家) p183~p186 岩村町史刊行委員会 1961年
- 『恵那郡史』 第七篇 第二十八章 諸藩分治 其一 岩村藩 松平氏二代 p211~p213 恵那郡教育会 大正15年
出典
脚注
外部リンク
大給松平家 那波藩藩主 (1590年 - 1601年) |
---|
大給松平家 | |
---|
酒井家 | |
---|
大給松平宗家 岩村藩初代藩主 (1601年 - 1614年) |
---|
大給松平家〔宗家〕 | |
---|
丹羽家 | |
---|
大給松平家〔乗政流〕 | |
---|