丹羽 氏信(にわ うじのぶ)は、三河伊保藩の二代藩主。のち美濃岩村藩の初代藩主。氏次系丹羽家二代。
一色丹羽氏の略歴
一色丹羽氏は清和源氏の後裔である。
源義家→源義国→足利義康→足利義兼→足利義氏→足利泰氏→一色公深→一色範氏[8]→一色直氏→一色氏兼→一色氏宗→一色氏明が尾張の丹羽郡丹羽荘に住んだ時に丹羽を姓としたことに始まる。
一色氏は、直氏の弟の一色範光の系統が室町幕府の四職として重用されたが、直氏の系統は没落し諸国に分家した。一色丹羽氏はそのうちの一つである。
戦国時代
氏明から九代子孫の丹羽氏勝は尾張守山城主織田信次の家臣であった。
織田信次の家臣の洲賀才蔵が、織田信長の弟である織田秀孝を誤殺し、織田信次が信長を恐れて守山より逃亡した際には、氏勝ら家臣団が守山城に立て篭もり織田信行の軍勢に抗戦した。
その後紆余曲折の末に織田信長に仕えたが、
天正8年(1580年)に氏勝は突如、信長によって追放されてしまった。
その子の丹羽氏次は、織田信雄の家臣時代を経て、
尾張愛知郡の岩崎城を居城としていた時に徳川家康に従い、小牧山の役にて戦功を挙げた。
江戸時代
慶長5年(1600年)、丹羽氏次は関ヶ原の戦いで東軍に属し戦功を挙げた。功が認められ、氏次は三河国加茂郡の伊保藩1万石の大名となった。
慶長6年(1601年)3月19日に氏次が死去。享年52(53との異説もある)。次男の氏信が嗣いだ。
丹羽氏信の略歴
天正18年(1590年)、丹羽氏次の次男として伊勢国に生まれた。
兄・氏資が早世したため嫡子となり、慶長6年(1601年)父の死去により家督を継いだ。
慶長19年(1601年)11月、大坂冬の陣では老臣の鈴木主馬らの兵を率いて、水野勝成とともに従軍し、夏の陣では、5月6日の道明寺の戦いで勝利し、5月7日の天王寺・岡山の戦いでは、敵首を19級を獲て功を挙げた。
氏信は戦功があったが、性格が勇敢で驕傲、数々大臣を侮ったため、暫く賞功のことが無かったが、
元和3年(1617年)、御書院番頭に任ぜられ式部少輔という従五位下に叙せられた。
寛永12年(1635年)3月、根来百人組頭に任じられた。
寛永15年(1638年)4月27日に1万石を加増されて2万石となり、12月に国替で岩村藩から浜松藩に移封した松平乗寿の後を受けて、岩村藩に移封された。
岩村城に入ると、城上八幡社の社前に別当寺として日月山 薬師寺を創建し奉祀のことを託し、領地の鎮護とした。
大給松平氏の菩提寺として岩村にあった龍厳寺の建物を受け取って、尾張国岩崎城近くにある菩提寺の大椿山 妙仙寺と同じ名前の寺を岩村に設置して菩提寺とした。妙仙寺六世斧峰牛鈯和尚の代である。
寛永21年(1644年)に大坂加番に任じられる。
正保3年(1646年)5月11日に江戸で死去した。享年57。岩村城下の妙仙寺に葬られた。
家督は長男の氏定が継いだ。
当時岐阜県恵那市岩村町に存在した菩提寺の妙仙寺に葬られたが、丹羽氏が播磨の三草藩に転封した際に妙仙寺も兵庫県加東市へ移ったため、現在、岩村には妙仙寺は存在せず大名墓地に墓が残されている。
系譜
- 生母不明の子女
- 長女:渡辺綱貞の正室
- 次女:鐺 (?-1636)
- 次男:勘十郎 (?-1642) - 権之助
- 三女:喜意 (?-1660)
- 四女:三枝守俊の正室
- 五女:亀 - 丹羽家家臣丹羽茂利養女のち松平成勝の正室
- 六女:鍋 (?-1669) - 丹羽家家臣鈴木光広の正室
- 四男:佐助 (?-1678)
- 七女:水野勝俊家臣上田玄蕃の正室
譜代丹羽氏 伊保藩2代藩主 (1601年 - 1638年) |
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丹羽家 | |
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本多家 | |
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譜代丹羽氏 岩村藩初代藩主 (1638年 - 1646年) |
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大給松平家〔宗家〕 | |
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丹羽家 | |
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大給松平家〔乗政流〕 | |
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参考文献
- 『岩村町史』 十五 岩村藩主時代 2 丹羽氏 p186~p192 岩村町史刊行委員会 1961年
- 『恵那郡史』 第七篇 第二十八章 諸藩分治 其一 丹羽氏五代 p213~p218 恵那郡教育会 大正15年
- 『恵那市史 通史編 第2巻』 第二章 諸領主の成立と系譜 第三節 岩村藩 二 丹羽家 p121~p125 恵那市史編纂委員会 1989年
- 『寛政重修諸家譜 第2 新訂』 第八十五 足利支流―一色 二篇・丹羽 二篇 p168~p175 堀田正敦 等 続群書類従完成会 1964年
脚注