松尾文人
東宝[4]、新東宝を経て[4]、エヌ・エー・シーに所属していた[4]。 神奈川県横浜市出身[1]。4歳から新派の舞台に上がり子役として歩み始め、京都のマキノ・プロダクションでスター子役となり、東京・巣鴨の河合映画製作社でも主役を張ったが、15歳を過ぎてからはバイプレイヤーに徹した。 来歴・人物マキノのスター子役1916年(大正5年)8月6日、横浜市南太田町東耕地[注釈 1]に、新派俳優の父・松尾二郎、母・カズの子として生まれる[3]。 1922年(大正11年)、6歳のときに国際活映巣鴨撮影所で、田村宇一郎監督の『噫新高』に出演し、また1923年(大正12年)には、7歳のときに高松豊次郎指揮、岩岡巽撮影による教育映画『史劇 和気清麿公』(プリント現存[7])に出演している[3][6]。 1924年(大正13年)5月、東亜キネマ甲陽撮影所に入社、同社の親会社の八千代生命の宣伝映画『求むる父』で本格的なデビューを果たす[3][6]。同年7月、同社がマキノ映画製作所を吸収合併し、甲陽撮影所長を牧野省三が兼務、その後の作品として、松尾が「流しの女の子」役の都賀静子とともに「流しの男の子」役で出演した本山裕児監督の『熱血の洗礼』が同月末に公開された。翌1925年(大正14年)2月25日公開の曾根純三の監督デビュー作『おもちゃ屋の小僧』で、松尾も初主演を果たしている[3][6]。 同年6月に牧野省三が東亜キネマから独立、マキノ・プロダクションを発足すると、松尾も同社の御室撮影所に移籍した。同年、同じく移籍した曾根純三監督の『寺小屋騒動』に主演の中村賞三郎の息子役で出演したあと、翌1926年(大正15年)には、『豆本太閤記』をはじめとして、曾根純三監督作品に6本連続で主演した。チャーリー・チャップリンの『キッド』(1921年)に影響を受けた『活動狂時代』では、柳妻麗三郎が「チャップリンに似た男」を演じている。三島章道の社会教育映画研究所で製作した『平和の勇士』では、のちにマキノ潔となる井上潔、のちに映画監督滝沢英輔となる滝沢憲と共演している[3]。 1927年(昭和2年)4月に嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎)が同社に入社、入社第1作・嵐の映画デビュー作の『鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子』では杉作を演じ[1]、絶賛される。また同年の片岡千恵蔵入社第1作・片岡の本格デビュー作『万花地獄』全4篇、翌1928年(昭和3年)のマキノ梅太郎主演作『ひよどり草紙』全5篇にも共演している[6]。 1928年6月に曾根純三が河合映画製作社に引き抜かれると、まだ11歳の松尾も、東京の同社巣鴨撮影所へ移籍した。入社第1作は曾根監督による松尾の主演作『面妖舞台裏』で、同作をはじめとして、1929年(昭和4年)の高見貞衛監督の『そば屋の小僧』や『四人孤児』、小沢得二監督の『血の曲芸団』、1930年(昭和5年)の森田京三郎監督の『地下室事件』などに主演した。同年春、巣鴨町立仰高尋常小学校(現在の豊島区立仰高小学校)を卒業、神田の正則英語学校(現在の正則学園高等学校)に入学するが、同年10月に中退した[3][6]。 脇役俳優としてすでに大阪の帝国キネマ演芸長瀬撮影所に移籍していた曾根純三は、同年9月の同撮影所の火災による消失のため、同社の太秦撮影所(のちの東映京都撮影所)に移り、また翌1931年(昭和6年)、同社が改組して新興キネマになるとそのまま残留していたので、15歳になった同年9月に、曾根のいる同社へ移籍した。しかし同社でもまたその東京撮影所(のちの東映東京撮影所)でも、松尾に来る役は脇役であった[6]。 1939年(昭和14年)5月、22歳のときにフリーランスとなり、独立プロダクションの作品に出演。1941年(昭和16年)の戦時統合による大映への合併があり、同年5月に東宝へ入社した[3][6]。 第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に新東宝へ移籍したが、1951年(昭和26年)4月に東宝へ復帰、成瀬巳喜男監督の『めし』(1951年)や『流れる』(1956年)、本多猪四郎監督の『空の大怪獣 ラドン』(1956年)や『大怪獣バラン』(1958年)で重要な役を演じた。42歳になった1959年(昭和34年)3月、ふたたびフリーランスとなり、福田純監督の『電送人間』(1960年)などに出演した[3]。 『初代杉作少年松尾文人 私と活動大写真』高瀬昌弘編(ワイズ出版、1998年7月)によると、1998年時点では療養中であったが、その後の消息は不明。 出演作品
その他映画
テレビドラマ
オリジナルビデオ
CM
その他
著書脚注注釈出典
出典(リンク)参考文献 |
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