東洋拓殖
東洋拓殖株式會社(とうようたくしょく、朝:동양 척식 주식회사、英:Oriental Development Company)は、日露戦争後の1908年(明治41年)12月18日に設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで、京城府及び満洲国、モンゴル、樺太、南洋諸島、ミクロネシアに存在した、日本の朝鮮統治時代に朝鮮における拓殖資金の供給および拓殖事業を目的とした大日本帝国の特殊会社である。通称、東拓。 戦前の日本における南満洲鉄道株式会社(満鉄)と並ぶ二大国策会社であり、大東亜共栄圏内の植民地政策に関して特権的な利権を保有。北はソビエト連邦国境から南は南方諸島まで、関連会社・子会社は85社を超えた[1]。終戦時は25万町歩に達し朝鮮最大の地主であった 沿革東拓設立構想東洋拓殖は、1908年(明治41年)12月18日制定の東洋拓殖株式会社法(東拓法)を根拠法とし、日本統治時代の朝鮮における日本農民の植民事業を推進することを目的として設立された[2]。 設立時の資本金は20万株で1000万円であった。韓国政府現物出資(土地)分6万株および役員持株千株を除く13万9000株が同年11月公募され、対象とされた日朝両民族による応募額は、35倍を超える466万5000株に達した[3]。 東洋拓殖の歴史は殖民団体たる「東洋協会」の作成案(東拓設立要綱)にまでさかのぼることが出来る[2]。桂太郎が中心人物となったこの東洋協会の案が政府内部で審議され始め、1908年2月に「東拓創立調査会」が発足。委員長の岡野敬次郎(内閣法制局長)、勝田主計(大蔵省理財局長)、児玉秀雄(総督府書記官)の主導の下に骨格が作られた。この動きに対して韓国統監(当時)の伊藤博文が、東拓の役員・出資者に韓国人を入れることを旨とする大韓帝国政府との共同出資案を創立調査会に告げ、また韓国王室との日韓民間の半官半民資本の共同出資により設立され、初代総裁には宇佐川一正(陸軍中将)が赴任した。 設立委員会には豊川良平(三菱合資会社銀行部総裁)、中野武営(関西銀行総裁)、韓相龍(漢城銀行総務長)ら財界や韓国側からも参加して、国家資本輸出と密着して植民地投資が展開されていく尖兵となった[4]。こうして政府が創立から8年間に毎年30万円の補助金交付、社債の保証を始めとした保護を含めた国策会社となった。 農業・工業・鉄道・電力初期東拓の合弁事業投資の柱となったのは「東亜勧業」(農業投資)、「満蒙毛織」(工業投資)、「天図軽便鉄道」(鉄道投資)、「北満電気」(電力投資)の4つの柱であった[5]。 当初は漢城(日韓併合後京城に改名、現在のソウル特別市)に本店を置き、朝鮮の土地5700町歩を所有して、日本からの移民と開拓をその事業として掲げた。会社発足当初から、政府の補助金も受けて土地の買収を進め、土地調査事業(1910年~1918年)で日本が買収した土地のうちから1万1400町歩が現物出資されるなどし、一部朝鮮農民の反撥も受けて買収が停滞するものの、1919年には7万8000町歩(全耕作面積の約1.8%)を保有した。 東洋拓殖の日本人移民事業は挫折したが、買収した土地で朝鮮人の小作を雇い、地主兼金融業を中心業務とするようになった。そのため、日本の敗戦に至るまで朝鮮における最大の地主となり、1937年には小作人7万8667人を擁した。また、皇室が同社の株を所有していたことも含め、第1次世界大戦期以降は朝鮮企業52社の株式を保有し、名実とも日本の朝鮮経営の中心となった。 また、移民事業では日韓併合後の明治43年(1910年)には14万人を数え、その後日本からの移民が大正6年(1917年)には33万人に達した[6]。次いで寺内正毅の鮮満一体化(いわゆる北進論)の掛け声と共に朝鮮人の満洲入植を図ったが、住民の抵抗を受け行き詰まり、経営破綻を経て、フランス・米国向けの社債発行も伴って、ブラジル・南洋群島への日本人移民に投資した。 大正6年(1917年)に東拓法が改正され、本店が東京に移される[注 1]。[7]と共に満洲、モンゴル、華北、南洋諸島にまでその営業範囲を広げた。 植民地進出創業期における東拓株主の構成は「日韓共同事業」的色彩の中に皇室による持株支配が徹底していたが、昭和初期に入ると三井銀行や岩崎久弥(三菱財閥総帥)、安田善次郎(安田財閥総帥)、大倉喜八郎(大倉財閥総帥)、山本条太郎(三井物産常務)が群小株主となり、経営に関して微々たる地位を占め始めた[8]。東拓金融部門においては不動産評価の理論体系が形成され、これと同時に朝鮮農工銀行の発行する農工債券の引受もすることになっていた。不動産金融による農業資金供給の制度を導入した効果は、低利資金供給のさきがけをつくり、日本資本主義の内部に帝国主義的独占が形成されることとなった。 1912年に成立するまで社債発行は困難を極め、事業計画全般を制限した。1913年3月[9]、日仏銀行(仏:Banque Franco-Japonaise, パリバ・日本興業銀行・インドシナ銀行が創設)が1935万円を引受けた。南洋興発発足から募集が積極性を増した。1923年3月[10]、ナショナルシティ銀行が3991.9万円を引受けた。1928年11月、またナショナルシティ銀行が再び同額を引受けた。[11] こうした資金と横浜正金銀行を後ろ盾に満洲国へ関東都督府(関東庁)、朝鮮総督府、南満洲鉄道と一体になって進出。ハルビン・大連・奉天等の植民都市建設計画を構想し、また日本軍監理下にあった中東鉄道を乗り換えて日本軍占領下のシベリア半島を視察。シベリア撤兵とソビエト連邦の成立によって、東拓は営業に乗り出す。以後、営業区域を関東州・満洲(中国東北部)・蒙古・華北・南洋諸島に拡大し、更にマライ半島の開発にも乗り出した。 1943年時点でバンジャルマシン(蘭印拓殖会社)とジョホール(英領マラヤ)のゴムプランテーションを直営していた[12]。 GHQによる整理第二次世界大戦敗戦後の9月30日、GHQは日本政府に対し「植民地銀行、外国銀行及び特別戦時機関の閉鎖」に関する覚書を交付。この覚書に基づき、東洋拓殖会社の即時閉鎖(閉鎖機関)が決定された[13]。旧東拓所有の不動産等は、昭和22年(1947年)在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁によって設置された新韓公社[14]の管理下に移され、その後1948年3月22日に中央土地行政処へ改組の上で農地改革を迎えることとなる。 歴代総裁
特殊な子会社と事業アマゾニア産業朝鮮鴨緑江水力発電・江界水力電気
樺太開発
その他関連企業・団体現存する建築物
主な東拓出身者
脚注注釈出典
参考文献
関連文献
関連項目 |