東川徳治
東川 徳治(ひがしかわ とくじ、明治3年3月16日(1870年4月16日) - 1938年(昭和13年))は戦前日本の中国法制史学者。臨時台湾旧慣調査会補助委員、法政大学講師、東北帝国大学附属図書館事務嘱託。大町桂月と親交があった。 経歴修学明治3年(1870年)3月16日土佐国(高知県)に生まれた[1]。1881年(明治14年)小学校を卒業して佐川村に移り、佐川中学分校に入学した[1]。1883年(明治16年)廃校後、伊藤蘭林・山本迂斎に漢学を学んだ[1]。1886年(明治19年)高知に出て、奥宮暁峰・松下武重に経学を学んだ[1]。 1888年(明治21年)大坂に出て、梅清処塾で山本梅崖に古文辞学・英学・数学を学び、1889年(明治22年)塾長となった[1]。また、藤沢南岳・菊池三渓に経学・詩文、関西法律学校で法律を学んだ[1]。 教育・報道1892年(明治25年)鹿児島に私塾を開き、漢学を教えた[1]。1893年(明治26年)岐阜師範中学補充学校教助となり、漢学・歴史・作文を担当し、野村藤陰に漢文法、前田某に英学を学んだ[1]。1894年(明治27年)佐川村に帰郷して私塾を開き、漢学その他を教えた[1]。 1897年(明治30年)台湾総督府澎湖島国語伝習所助教諭となり、日本語を教えた[1]。1898年(明治31年)仙台に移って千頭清臣宮城県知事官房秘書係となり、1899年(明治32年)『三陸海嘯誌』を編集した[1]。 1900年(明治33年)帰京し、10月頃から『富士新聞』論説欄を担当しながら、和仏法律学校校外生として法律を学んだ[1]。1901年(明治34年)7月頃根室に移り、『根室時事新聞』主筆を務めた[1]。1903年(明治36年)帰京し、法政大学校外生となった[1]。 中国法制研究漢学の素養を活かせる職を求めたところ[2]、1904年(明治37年)6月梅謙次郎の推薦で臨時台湾旧慣調査会第一部(法制部)に採用され、岡松参太郎の下で中国・台湾の親族法を実地調査し、『台湾私法』を編纂した[1]。1907年(明治40年)6月30日京都帝国大学法科大学内[1]臨時台湾旧慣調査会行政科(京都公司[1])嘱託、1911年(明治44年)2月23日補助委員となり、『清国行政法』第5巻第3編(司法行政)を担当した[3]。 1915年(大正4年)5月31日解任されて[3]帰京した[1]。1916年(大正5年)総督府の命で福建省の教育・宗教を調査すると同時に、「支那法制辞典」編纂に取り組んだ[2]。1917年(大正6年)頃法政大学講師となり、経書を講義した[1]。1919年(大正8年)3月台湾に出張して調査報告を行った[1]。 東北帝大勤務1921年(大正10年)3月仙台に単身赴任し、岡松参太郎の推薦で東北帝国大学附属図書館事務嘱託となり、法文学部設置に向けて狩野文庫・長谷川文庫を整理し、開設後も蔵書整理に当たった[1]。この頃舌・手が不自由となった[1]。 1932年(昭和7年)1月31日法文学部講師となるも、3月10日辞職し、11月1日図書業務も解かれて[4]帰京した[1]。1933年(昭和8年)名古屋に転居し、1938年(昭和13年)港区惟信町多賀良浦で死去した[1]。 著書
栄典
交友生涯親交した大町桂月は従兄弟ともいい、1903年(明治36年)その弟子田中貢太郎を牛込区天神町の自宅に滞在させたり、1918年(大正7年)アルコール中毒となった桂月を入院させた[1]。 親族
脚注参考文献
外部リンク
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