東勇作
東 勇作(あずま ゆうさく、1910年(明治43年)4月18日 - 1971年(昭和46年)8月4日[2])は、日本のバレエダンサー、振付家である。 生涯宮城県仙台市で生まれた。1922年、12歳の時にアンナ・パヴロワの来日公演を横浜で鑑賞して感銘を受けた[3]。旧制仙台二中(現在の宮城県仙台第二高等学校)を卒業後に上京し、1930年に当時鎌倉の七里ガ浜でバレエスクールを開いていたエリアナ・パヴロワの内弟子となってバレエの道に進むことになった[3]。 後にパヴロワの元を離れ、蘆原英了が創設した「日本チェケッティ協会」に加入してバレエの研究に取り組んだ[3]。一方で日劇を本拠地にして1934年に高田せい子の門下だった益田隆、浅草の「カジノ・フォーリー」で活躍していた梅園竜子[4]とともに「益田トリオ」を結成して活動し、1936年に来日したオリガ・サファイアのパートナーも務め、サファイアからソビエトバレエについての知識を得た[3][5]。1941年に「東勇作バレエ団」を結成し、第1回公演では『牧神の午後』『レ・シルフィード』を上演した。同年の第2回公演では『ジゼルの幻想』を資料だけを頼りに上演し、自らがアルブレヒト役を務めた。この公演では、アドルフ・アダンの原曲の楽譜が手に入らないため、フレデリック・ショパンの曲を使用して2幕のみを上演している[5][6]。東の教えを受けた者の中には、松山樹子、松尾明美、薄井憲二など後に日本バレエ界で名を成した人物が含まれている。 戦後は東京バレエ団[7]の結成に参加し、同バレエ団の第1回公演『白鳥の湖』でジークフリート王子を踊った。一時期バレエ界の表舞台から身を引いていたが、1954年に復帰して幾つかの作品を振付け、後に松山バレエ団の教師となって後進の指導も手がけた[5]。 主な振付作品
脚注
参考文献
外部リンク
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