来島恒喜
来島 恒喜(くるしま つねき、1860年[注 1]1月31日〈安政6年12月30日〉 - 1889年〈明治22年〉10月18日)は、日本の右翼活動家、不平士族、テロリスト。筑前共愛公衆会・玄洋社元社員。条約改正に絡む外国人司法官任用問題から、当時外務大臣を務めていた大隈重信の暗殺を計画して1889年10月18日に決行におよび、大隈に爆弾を投げつけて右脚切断の重傷を負わせ、自身はその場で自害した。 概要→「外国人司法官任用問題」も参照
福岡藩士・来島又右衛門の二男として現在の福岡県福岡市に生まれる。 高場乱の興志塾に学び、堅志社、十一学舎を経て、1879年(明治12年)4月、向陽義塾に加入する[2]。 1883年(明治16年)4月、上京し中江兆民に仏語を学んだ後、筑前共愛公衆会や、頭山満率いる玄洋社に参加する。一時、小笠原諸島に玄洋社の的野半介、竹下篤次郎と渡り、同地に送られた朝鮮開化党の金玉均と過ごし、朝鮮の政治改革について語り合った。 その後、大隈重信の条約改正案に反対し、現状の日本の国際地位ではこの改正案が第一歩として次の改正に繋がると批判しなかった[要出典]玄洋社を退社。(退社の理由は他の社員が共犯関係を疑われて刑事責任を負わされる可能性を最小限に抑える為とも言われる)。計画には同じく玄洋社の社員であった月成功太郎も加わっていたが、老母、妻子を持つ月成の身を欺き、単独で決行した。 1889年(明治22年)10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車へ爆弾を投げつけた。爆弾は馬車の中に入り、大隈の足元で爆発した[3]。来島はその場で短刀で喉を突き自害した[3]。享年29。大隈は命はとりとめたものの、顔と手に軽症、右膝と踝に重症を負い、右脚を切断することとなった[3]。かねてから条約交渉に反発していた閣僚らは、黒田清隆首相に条約改正交渉の中止を求めた。これにより黒田内閣は総辞職に追い込まれ、条約改正は頓挫した[4]。 後に、友好関係にあり眠食も共にした杉山茂丸が自身の著書『百魔』の中で、以前、自決することを仄めかす様な事を言ったとある。また、上京することを杉山に告げた際、時期でないと止められたが、林斧助という人に杉山宛の手紙を残したまま上京した、ともある。 逸話
墓所来島の死後、広田徳平により墓碑が寄贈され、博多の玄洋社墓地(崇福寺)にも墓が建てられた。また、勝海舟によって谷中霊園にも墓が作られた。同墓はその後、頭山満によって建て替えられたが、当初の墓石も傍に横たえて残されている。 登場する作品
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク |
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