本田威志
本田 威志(ほんだ たけし、1937年8月20日 - 2010年7月27日)は、日本の元プロ野球選手(内野手)。愛知県岡崎市出身。 来歴・人物愛知県立岡崎高等学校では2年生の時、遊撃手として1954年春の選抜に出場。1回戦で八田正のいた鳴門高に敗退[1]。同年の春季中部大会は決勝に進み、1年上の河井学(毎日オリオンズ)が四日市高の巽一との投げ合いを制し優勝。同年夏の甲子園県予選でも準決勝に進出するが、中京商の中山俊丈に抑えられ完封負けを喫する。1年上のチームメートには河井とともに投の二本柱を組んだ杉浦四郎(毎日オリオンズ)がいた。翌1955年夏の甲子園県予選でも準決勝に進出するが、東邦高に完封負け。 卒業後は中央大学へ進学。東都大学リーグでは1958年春季リーグで5年ぶりの優勝に貢献。同年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で立大に惜敗し準優勝。しかしチームは部員の不祥事により1959年春季リーグ出場停止、同年秋季リーグから二部に降格された。リーグ通算75試合出場、273打数76安打、打率.278、0本塁打、32打点。ベストナイン1回(二塁手)。大学1年上には後に大洋でチームメイトとなる桑田武、森田斌、同期に小栗秀夫、若生照元の両エースと西山弘二(広島)がいた。 1960年に大洋ホエールズに入団。1年目から内野手として3試合に先発出場するが、二塁手のポジションは同期入団の近藤昭仁が獲得したこともあり、あまり出場機会に恵まれなかった。1962年に中日ドラゴンズに移籍、1964年限りで引退。 引退後は中日で二軍マネージャー(1965年 - 1969年)→一軍マネージャー(1970年 - 1988年)、スカウト(1989年 - 1994年)→スカウト部長(1995年 - 2003年)→スカウト部長付顧問(2004年 - 2005年)を歴任。マネージャー時代はチーム内で「本マネ」の愛称で呼ばれた[2]。スカウト時代は中田宗男に部長の任を譲った後に退団。 2010年7月27日、脳梗塞のため、愛知県豊田市の病院で死去。享年72[3]。 詳細情報年度別打撃成績
背番号
脚注
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