本多忠鵬

 
本多忠鵬
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 安政4年12月21日1858年2月4日
死没 明治29年(1896年3月24日
改名 増三(幼名)→忠鵬
墓所 愛知県碧南市札本町の康順寺
官位 従五位下、対馬
幕府 江戸幕府
三河西端藩主→西端藩知事
氏族 本多氏
父母 父:本多忠寛
兄弟 忠鵬正順
辰男
テンプレートを表示

本多 忠鵬(ほんだ ただゆき)は、三河西端藩の第2代(最後の)藩主。

生涯

安政4年(1857年)、大身旗本本多忠寛(後に西端藩の初代藩主)の長男として江戸で生まれる。慶応3年(1867年)5月20日、父が病気を理由に隠居したため、家督を継いで藩主となる。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に与して尾張藩に属した。また、西端陣屋を改築している。

明治2年(1869年)6月、農兵を徴兵して洋式訓練を行なっている。直後の6月23日、版籍奉還により西端藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県後は西端県知事に任じられるが、11月の新県合併で額田県と合併して愛知県に編入されたため、罷免されて東京へ移った。

明治17年(1884年)5月、宮中祗候に任じられる。同年7月、華族令に伴い子爵を授爵した。明治24年(1891年)9月、裁判所から家産分散の宣告を受ける。この頃の本多家は経済的に傾いていたと考えられる。

明治29年(1896年3月24日、死去、享年40。

家族

父母

子女


日本の爵位
先代
叙爵
子爵
西端本多家初代
1884年 - 1896年
次代
本多辰男