木津町
木津町(きづちょう)は、京都府相楽郡にあった町。2007年(平成19年)3月12日、山城町、加茂町と合併し木津川市となった。 概要京都府最南端に位置する、京都府相楽郡の旧町。木津町の名は、かつて木津川の木材陸揚げ港として栄えていたことに由来する(津は港を意味する)。古くは木津川の水運と京都-奈良間の陸路が交わる交通の要地として栄え、奈良時代は平城京の外港として、木津へと外国の文物が運ばれた。現在でもJR関西本線・奈良線・片町線と近鉄京都線、また国道24号・国道163号が通じる交通の要地である。 合併以前から人口増加が著しく、2005年(平成17年)実施国勢調査速報値によると、増加率は日本国内町村の中で6位(当時)であり、2006年(平成18年)3月10日に4万人を越えた。 関西文化学術研究都市(学研都市)の一部であり、研究施設が建ち並ぶ地区もあるが、古い街並みと豊かな自然の残る地区が多い。柿が特産。 「自然と伝統を生かし、文化を創造する調和のとれたふれあいのまち」を町の標語に掲げていた。 歴史『和名抄』に「水泉(いずみ)郷」としてあらわれる。地名「イズミ」の由来は『古事記』崇神天皇記に「是に山代の和訶羅河に到りし時、其の津波邇安王、軍を興して待ち遮り、各河を中にはさみて、対ひ立ちて相挑みき。故、其地を号けて伊杼美(=イドミ)と謂ふ。今は伊豆美と謂ふなり」とある[1]。「山城名跡巡行志」には「本名、泉ノ里、或高瀬ノ里」とあり、もと「泉」と呼ばれていたものが、東大寺大仏殿建立の際、材木船の津(港)とされたことから「木津」の呼称が広まったものという。 木津川対岸の上狛(現・木津川市山城町上狛)との間にかかる泉大橋は天平13年(741年)架橋という。古代には東大寺、中世には興福寺の荘園が置かれ、江戸時代には奈良街道沿いに宿駅や河港として発展した。明治8年(1875年)には、枝・上津・千童子・大路・小寺・南川の木津郷6か村と木津宿23町が合併して(旧)木津村が成立。明治14年(1881年)には旧木津宿23町が分離して(旧)木津町(読みは「きづまち」)成立。
人口の変遷第二次世界大戦後の1951年に相楽村と合併したときは人口が9000人足らずであった。その後の1970年代の半ばまで横ばい状態である長閑な水田の広がる田舎町であった。しかし、1980年頃から人口増加が著しく、1980年の人口が1万6000人弱であったのが関西文化学術研究都市に指定されてからは相楽台の住宅地造成で人口が30000人近くに膨れ上がり、木津川台・梅美台・州見台の開発で人口が4万人近くに膨れ上がり、増加率が日本全国の市町村の中で第6位にランクされた。ちなみに木津町史によると1987年9月末現在の人口推計によると2010年には84000人になると予測された。
(2007年は3月1日現在、他は10月1日現在の数値)
関西文化学術研究都市に指定されてからの開発
関西文化学術研究都市が木津町に指定されてからは、奈良県との県境に位置する丘陵に相楽ニュータウン、近畿日本鉄道・近鉄不動産による山田川団地、加茂町・奈良県との県境に木津ニュータウンを建設した。 行政主要な公共施設
産業ロート製薬、オムロン、積水ハウス総合住宅研究所などの民間研究施設ならびに、きっづ光科学館ふぉとん(量子科学技術研究開発機構 関西光科学研究所)、ATR[要曖昧さ回避]等の国の研究施設が立地。 姉妹都市・提携都市国内 教育幼稚園
小学校中学校高等学校大学福祉・医療保育所
交通鉄道木津駅は交通の要衝であり、2007年(平成19年)春の橋上駅供用開始と合わせて、駅東口の設置が進められている。 道路高速自動車国道国道府道レジャー・祭事・文化財・墓レジャー祭事
重要文化財(国指定)
史跡(国指定)
京都府指定有形文化財
京都府指定無形民俗文化財
京都府指定史跡
京都府登録有形文化財
京都府登録無形民俗文化財
木津町指定有形文化財
その他出身者その他
脚注参考文献
関連項目 |