明智憲三郎
明智 憲三郎(あけち けんざぶろう、1947年 - )は、日本の作家、歴史研究家、情報処理技術者である。 本能寺の変について家康黒幕説を主張することで知られるが[2]、この説については複数の歴史学者からまったく成立する余地がないと批判されている[3][4][5][2]。 略歴先祖は明智光秀の側室の子於隺丸(おづるまる)で、於隺丸は山崎の合戦後、京都山城に匿われ、神官の子として育てられたと主張している[6][注釈 1]。明治まで一族は明田(あけた)の姓を名乗っていて、1887年(明治10年)頃、曽祖父にあたる明智潔が系図などの証拠の品を添えて政府に明智姓への復姓を願い出て認められた。復姓の理由は「将来愚昧な子孫が明智光秀より連綿と続いた家系を認識せず、明田を本姓と誤ることがあれば祖先の霊に相済まない」[6][7]。その系図も1923年(大正12年)の関東大震災の際に焼失し、同時に、伝わっていた明智家の武鑑、光秀直筆の「山あひの霧はさながら海にして波かと聞けば松風の音」と書かれた短冊、同じく光秀のものとされる能管も一緒に焼失している[6]。 光秀生存説(天海=光秀説/天海=秀満説)を唱えた明智滝朗は祖父[1]。 1970年、慶應義塾大学工学部計測工学科卒。1972年、慶應義塾大学大学院工学研究科計測工学専攻修修士課程修了。同年、三菱電機株式会社入社。2000年、三菱電機ビルテクノサービス株式会社情報システム部長。2003年、三菱電機情報ネットワーク株式会社技術統括部副統括部長。2006年-2012年、株式会社第一情報システムズ常務取締役[8][1]。 2009年、会社勤めのかたわら『本能寺の変 四二七年目の真実』を出版[1]。 2015年4月、BS日テレの「片岡愛之助の解明!歴史捜査」の初回(本能寺の変)に出演。同番組のコンセプトは著書『本能寺の変 427年目の真実』に着想を得たものである[7]。 著書
評価明智憲三郎は、著書『本能寺の変 四二七年目の真実』において、本能寺の変について家康黒幕説を主張していることで知られる[2]。明智憲三郎は、余人に先駆けて本能寺の変の謎をすべて解明できたと主張する[2]。すなわち、織田信長が明智光秀に徳川家康殺害を命じたものの、却って光秀と家康が協力して本能寺の変を起こしたというのである[2]。そしてこの点について、小和田哲男(戦国史)は、明智憲三郎の主張である一族滅亡阻止説[注釈 2]と信長による家康を討つ計画という「この二つの結論はありえない」と断じている[5]。 藤本正行・鈴木眞哉は「家康が本能寺の変に関与したという説には、いずれも直接証拠がなく、状況証拠と憶測から割り出されたものばかりである。その内容も、至って脆弱で、なぜ家康が信長を殺さねばならなかったかという肝心の点については、納得のゆく説明がない。」としたうえで[9]、「残念ながら、これらの点は明智氏の『四二七年目の真実』にもあてはまるようだ。」と明智説を批判している[3]。このようなことから明智憲三郎の説は、学術的には、明らかに荒唐無稽な説であると考えられているため、その説を詳細に批判しているのは、藤本正行(日本軍事史)のような一部の研究者のみである[10]。明智憲三郎のこの説を詳細に検討した呉座勇一(日本中世史)も、明智憲三郎の議論について、全体として「到底従えない」ものであると結論づけている[11]。そもそも家康黒幕説は、古くは歴史小説家の八切止夫らが、家康の存在に着目しているため[12]、明智憲三郎が主張する「新説」とは言い難い[2]。信長が光秀に家康殺害を命じていたのではないかという議論も、すでに藤田達生(日本・中近世史)が明智憲三郎以前に検討している[2]。 呉座によれば、明智憲三郎はたしかに史料や先行研究をある程度は調べており、『惟任退治記』の史料批判などの細かい部分では評価できる面はあるとする[11]が、疑問点・矛盾点が数多くあり[13]、明智憲三郎の説は「奇説」[14]であると呉座は位置づけている。
明智憲三郎は自身の調査を従来の歴史研究よりも遥かに洗練された手法によるものだと位置づけ、それを「歴史捜査」と名付けている[18]。呉座勇一は、明智憲三郎は本能寺の変が「完全犯罪」であると信じるあまり、その「歴史捜査」は「推理小説家のトリック作り」のような不自然なものに陥っていると評している[18]。 他方で、加藤弘一(文芸評論家)は、明智憲三郎の議論を、本能寺の変についての「最も説得力のある陰謀説」の一つであると述べる[19]。そして、明智光秀が細川藤孝の家臣であったとする説や、家康と光秀に協力関係があったとする説などについて、その面白さを高く評価している。 出演歴
脚注注釈出典
参考文献
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