早稲田大学高等学院生殺人事件
早稲田大学高等学院生殺人事件(わせだだいがくこうとうがくいんせいさつじんじけん)とは、1979年(昭和54年)1月14日に東京都世田谷区在住の早稲田大学高等学院1年生が祖母を刺殺した家庭内殺人事件[1]。 犯人がエリート一家に育ち、マスコミ宛に殺人計画のシナリオや大衆を憎む遺書や録音テープなどを残して自殺したことで話題になった。 概要1979年(昭和54年)1月14日正午ごろ、東京都世田谷区の自宅で高校1年生の少年が、金槌、ナイフ、錐などで祖母を殺害した。殺害後に犯人は逃走して、殺害現場から2キロメートルほど離れたビルから飛び降りて自殺した。犯人の部屋には朝日新聞、毎日新聞、読売新聞にあてた遺書が残されていた[2]。 残された遺書は、量的には大学ノート40ページ、400字詰め原稿用紙に換算すれば94枚ほどであり、6章で構成されていた。遺書の約7割は大衆・劣等生のいやらしさと祖母に関する事柄で占められていた[3]。また、1977年の開成高校生殺人事件(親が子を殺害)や若者の自殺などについても触れられていた。 犯人は幼少時より、同年代が集まる場で馴染めずに孤立しがちであった。そして小学校の道徳の時間には、質問に対して模範的な回答ではなく偽悪的な回答を、それに憧れたように他の級友と共に回答していた。このようになったのは勉強ができるということだけを、人間の価値を図る基準としていたためであると見られた[4]。 犯人の母親はよく言われる教育ママではなく、それとは反対に自分のやりたいことをやることを願っていた。だが祖父と父親は大学教授であり、子供も同じようになるべきであるという空気が家庭にはあった。そして祖母が、犯人に対しては祖父のような人物となることを望み、祖母が全てをこの一つの理想の価値にするための手段としていた[5]。犯人は両親と妹と共に数年前から、母方祖父母が同居用に建て直した家で暮らしていたが、事件の1年ほど前に両親が離婚し、父親は家を去っていた。 遺留品朝日、毎日、読売新聞の三紙に宛てた大学ノート40ページ分(400字詰め原稿用紙約100枚相当)の遺書があり、「大衆・劣等生のいやらしさ」「祖母」「母」「最近ふえはじめた青少年の自殺について」などと題された7章で構成されていた[6]。そのほかに犯行の動機と計画を語った録音テープ、実行のためのシナリオなどが遺されていた[6]。それらによると祖母だけでなく、家族皆殺しのあと、億単位となる通帳や証券を焼き捨て、その後家を出て行きずりの「大衆」を無差別に殺して「ざまあみろ」と書かれたビラを撒き、この大量殺人を道連れに自殺する、とあった[7]。 事件後遺書に犯人が愛読していた筒井康隆を思わせるくだりがあり、事件一か月前に完結した筒井の小説『大いなる助走』が影響を与えたのではないかと当時話題になり、1979年の『現代思想』での対談で、筒井自身が「ぼくははっきり自分の影響だと思ってます」「文学は社会にとっての毒である」と述べた[8]。事件後に刊行された筒井の『宇宙衛生博覧会』(1979年)の帯には、「18歳未満お断り!我慢できずに読んでしまった人へ。人殺しだけは絶対にしないでください。あとでこの本のせいにされても責任はもちかねます」と書かれた[9]。 また、犯人の母親で被害者の娘であるシナリオライターの朝倉千筆はこの体験に基づき、朝倉和泉名義で『還らぬ息子 泉へ』(中央公論社、1980年)『死にたいあなたへ』(中央公論社、1981年)を上梓した。 脚注
|