旧中七木綿本店
旧中七木綿本店(きゅうなかしちもめんほんてん)は、愛知県知多市岡田字開戸28-1にある建築物。主屋(旧事務所)、長屋門、作業所・寄宿舎、南蔵、北蔵、塀が登録有形文化財。 歴史中島七右衛門江戸時代の知多半島では生白木綿の木綿が製造されたが、これらは伊勢国から伊勢晒や松阪晒として江戸に出荷された[2]。 天明年間(1781年~1788年)には知多郡岡田村(現・知多市岡田)の中島七右衛門らが伊勢国から知多木綿に晒技術を導入し、地名を冠した知多晒として出荷されるようになった[2]。中島七右衛門は木綿買継問屋の鑑札を取得して問屋を営んでいたが[3]、当主の中島中庸は1895年(明治28年)頃に廃業を決意した[4]。 中七木綿1896年(明治29年)、廃業を惜しんだ関係者によって中七木綿合資会社が設立され、中島家の事業を継承した[4]。生産設備を持たない問屋の将来性を疑問視し、約50台の小幅力織機を備えた工場を建てると、1907年(明治40年)に織布業を開始した[4]。1909年(明治42年)にこの工場が焼失すると、1911年(明治44年)には豊田式力織機190台を備えた第一工場を建てた[4]。1910年(明治43年)には加藤六郎右衛門が社長に、杉浦憲弐が工場責任者に就任している[4]。1914年(大正3年)には火災跡地に事務所が建てられ、同年頃には長屋門、作業所・寄宿舎、南蔵、北蔵、塀も建てられた。 第一次世界大戦後には飛躍的な発展を遂げた[4]。1917年(大正6年)には第二工場を建て、1919年(大正8年)には株式会社に改組した[4]。1914年(大正3年)頃の力織機台数は約200台だったが、1919年(大正8年)頃には約500台となっている[4]。1927年(昭和2年)には第二工場が放火によって焼失したが、再建した第二工場にはよりよい性能の豊田式力織機を設置した[4]。1934年(昭和9年)頃には第三工場を建て、1930年代中頃の力織機台数は約1600台に達した[4]。 保存2017年(平成29年)6月28日、主屋(旧事務所)、長屋門、作業所・寄宿舎、南蔵、北蔵、塀が登録有形文化財に登録された[1][5][6][7][8][9]。岡田地域では知多岡田簡易郵便局、木綿蔵ちた、雅休邸(旧岡田医院)に続く登録である[10]。 建築
脚注
参考文献
外部リンク
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