日野義資
日野 義資(ひの よしすけ)は、室町時代前期の公卿。藤原北家真夏流日野家、大納言・日野重光の三男。官位は正三位・権大納言。裏松家(室町期)当主。 経歴応永14年(1407年)11月19日、足利義満の鹿苑寺において義満自身が烏帽子親となって元服が行われ、義満は偏諱として「義」の字を与えた。これは義資が義満の正室・日野康子の甥であったためであるが、武家で「義」の字を恒常的に与えられていたのは斯波氏のみであり、公家に対しては摂関家の当主でさえ「満」の字しか与えられておらず、破格の厚遇であった。 足利義持の死後、その弟の青蓮院義円(足利義教)が後継者に選出されると、青蓮院を退出した義円の住まいとして自宅である裏松邸を提供した。また、義持の未亡人・栄子と協議し、妹・宗子を義教の正室としている。しかし、義教が本格的に政権を始動させると、義資は青蓮院門跡であった時代に不忠の咎があったとして所領を2か所没収され、蟄居を命じられた。また、宗子は義教と不仲であり、永享3年(1431年)には離縁されている。その後、もう一人の妹重子が義教の側室となった。 重子が後に義教の跡を継ぐことになる千也茶丸を産んだ時、蟄居していた義資の屋敷に人々が次々と祝いに訪れた。しかし、義教はこれに激怒し、祝いに訪れた者を調べあげて全員を処罰している。そして、永享6年(1434年)6月9日、義資は自邸で就寝中、侵入した何者かに殺害され、首を持ち去られた。犯人は捕まらず、当時から義教の指示であるという噂が流れていた。参議・高倉永藤はこの噂話を口にして義教に知られ、たちまち硫黄島へ流罪となった。 家督を継いでいた嫡男・重政もこの際に所領を没収されて出家しており、裏松家はまだ幼い重政の子・勝光を残して断絶の危機に瀕することになった。 系譜 |