日野光国
日野 光国(ひの みつくに)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。藤原北家真夏流日野家、権中納言・日野資実の四男。官位は従三位・非参議・越後権守。 経歴貞応3年(1224年)に勧学院学問料を賜っており、嘉禄元年(1225年)には文章得業生となる。 嘉禄2年(1226年)に因幡権守に初任。右衛門尉・佐渡守を経て、嘉禄3年(1227年)従五位下に叙爵。寛喜2年(1230年)には藤原竴子の中宮権大進に任ぜられる。権大進として、寛喜3年(1231年)の中宮入内や、中宮御所の辺りで火災が発生した際などでの中宮への伺候が見える[1]。寛喜4年(1232年)には従五位上に陞叙して昇殿を許された。貞永2年(1233年)に権大進を止み、嘉禎3年(1237年)に正五位下に進む。 美作守・春宮権大進・五位蔵人を歴任し、寛元4年(1246年)に民部大輔に任ぜられる。その後、権左少弁・右中弁など弁官を務めている。宝治2年(1248年)後嵯峨上皇及び中宮西園寺姞子が法勝寺修正に臨幸した際に参仕[2]。さらには建長2年(1250年)10月に天皇が鳥羽殿に行幸した際には殿上人として参仕している[3]。建長7年(1255年)に従四位上、建長8年(1256年)に正四位下に進み、正嘉元年(1257年)には左中弁に転じ、勧学院別当に補された。 東宮学士・左宮城使を経て弘長元年(1261年)に左大弁に転じた。蔵人頭・大蔵卿を歴任し、文永元年(1264年)に従三位に叙され公卿に列した。文永2年(1265年)には越後権守を兼任。 文永7年(1270年)10月13日薨去。享年65。 官歴※以下、『公卿補任』の記載に従う。
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