藤原長倫
藤原 長倫(ふじわら の ながとも)は、鎌倉時代の公家。藤原式家、文章博士・藤原光輔の次男。官位は正三位・式部権大輔。 経歴後鳥羽院政期初頭の正治元年(1199年)文章得業生に補せられ、翌正治2年(1200年)丹後掾に任ぜられる。建仁元年(1201年)正月に献策を行うと、3月に式部少丞に任ぜられ、建仁2年(1202年)従五位下・越前権守に叙任される。 承元3年(1209年)従五位上・民部少輔に叙任されると、建保4年(1216年)式部少輔と京官を務め、建保6年(1218年)従四位下に昇叙された。承久元年(1219年)式部省の巡任を止められて治部大輔に遷るが、承久3年(1221年)文章博士となる。同年に発生した承久の乱以降は貞応元年(1222年)従四位上、元仁元年(1224年)正四位下と順調に昇進し、寛喜2年(1230年)式部権大輔に任ぜられた。 寛喜3年(1231年)春宮・秀仁親王の東宮学士を兼ね、貞永元年(1232年)秀仁親王が即位(四条天皇)すると学士の功労により従三位に叙せられ、藤原式家の氏人としては平安時代中期の参議・藤原忠文以来約280年ぶりに公卿の地位に昇った。天福元年(1233年)子息の光兼を大学頭に任じる代わりに式部権大輔を辞すが、延応元年(1239年)正三位に至る。 仁治3年(1242年)7月27日出家。法名・澄阿[1]または証阿[2]。 官歴『公卿補任』による。
系譜『尊卑分脈』による。 脚注参考文献 |