文容彩

文容彩
生誕 1916年
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮平安北道定州郡
死没 1976年3月23日
大韓民国の旗 大韓民国ソウル特別市
所属組織  満洲国軍
大韓民国陸軍
最終階級 上尉(満州国軍)
准将(韓国陸軍)
除隊後 政治活動家
陸伍産業社長
墓所 国立ソウル顕忠院第1将軍墓域72号
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文 容彩(ムン・ヨンチェ、문용채)は、大韓民国軍人創氏改名時の日本名眞田[1]もしくは直田剛一[2]。本来の名前の表記は文龍彩であったが、解放後は文容彩となった[3]

経歴

1916年、平安北道定州に生まれる。五山中学校卒業[2]

1936年6月、中央陸軍訓練処に入学[2]。ハルビンの第4教導隊で3か月間基礎軍事訓練を受けた後、吉林憲兵訓練処で学び、1937年9月、第5期卒業[2]。見習軍官を経て、同年12月に憲兵少尉任官[2]

1941年4月、憲兵中尉[2]

第2次世界大戦末期は上尉で熱河省の憲兵第5団平泉分団長[2][4][1]を務めており、7月8日に第5団本部副官に異動して終戦を迎えた[1]

帰国後

1946年2月21日付で軍事英語学校卒業、任少尉(10052番)、清州第7連隊A中隊長[5][6]に発令されたが、草創期ゆえの人事管理の不備ですでに任官者がおり、続いて春川8連隊のA中隊長に発令されたが、こちらも同様で就任できなかった。これに憤慨して辞表を出し、軍を去る。[7]

その後、警察に転職し済州島第1区警察署長。済州島四・三事件で交渉決裂の決定打となったオラリ放火事件の自演工作に関与したとされ、また5月3日には米軍と警備隊第9連隊により護送中の投降者を襲撃して米軍と警察との銃撃戦を引き起こしてしまい、マンスフィールド軍政長官により軍政本部に召喚される[7]

以後、陸軍士官学校に再入校して特別任官し、1949年1月16日、陸軍憲兵学校校長代理となり、3月16日から正式に校長となった[8]

1949年6月、ソウル憲兵隊長[8]

1949年10月、陸軍本部情報局第3課長[9]

1950年2月14日、第6師団参謀長[10]

1950年4月、陸軍本部政訓監[11]。なお、第2代総選挙鐘路区甲朝鮮語版から三老党(삼로당)所属で出馬しているが落選。

1950年6月10日、第2師団隷下の第16連隊[12]に任官され、25日の朝鮮戦争開戦を迎える。27日のソウル陥落目前では北部におり、副連隊長の李源長中領より二度にわたり漢江南岸への独断撤退を進言され、これを承諾した。翌28日より漢江の戦いで奮戦。7月下旬より第8師団の隷下に入り、安東撤収作戦参加中の7月28日、金東洙に連隊長を引き継いだ。

1950年10月18日、京畿地区兵事区司令官[13]

1952年2月27日、陸軍本部戦史監[14]

国会連絡将校を経て、1952年8月、慶尚南道地区兵事区司令官兼陸軍慶尚南道地区民事部長[15]

1952年11月20日、陸軍本部戦史監[16]

1953年4月、初代第25師団長

停戦後

1957年時点で第12師団長[17]

1959年3月、予備役編入[18]フィリップ・チャールズ・ハビブの報告書によると、公金流用により宋堯讃に解任されたという[19]

その後、三民党を立ち上げ[20]、1960年選挙でソウル特別市長選に出馬するも再び落選。その後、陸伍産業社長[21]。1973年、ソウル市内の自宅で死去した。

2008年4月29日に民族問題研究所親日人名辞典編纂委員会が発表した親日人名辞典収録対象者軍部門に記載[22]

出典

  1. ^ a b c 満憲会記録刊行事務局 1984, p. 249.
  2. ^ a b c d e f g 親日人名辞典編纂委員会 2009, p. 794.
  3. ^ 飯倉 2021, p. 70.
  4. ^ 満憲会記録刊行事務局 1984, p. 33.
  5. ^ 佐々木 1976, p. 87.
  6. ^ 佐々木 1976, p. 36.
  7. ^ a b “満州将校が「光復闘争」?顕忠院の中に詰まった身分洗濯” (朝鮮語). オーマイニュース. (2021年3月21日). https://m.ohmynews.com/NWS_Web/Mobile/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0002728302#cb 2024年11月1日閲覧。 
  8. ^ a b 憲兵史編纂委員 1952, 第三編 教育史.
  9. ^ 連続刊行物 自由新聞「정보국 제3과장 文龍彩중령 임명」” (韓国語). 国史編纂委員会. 2021年5月25日閲覧。
  10. ^ 佐々木 1976, p. 213.
  11. ^ 連続刊行物 自由新聞「육군본부 정훈감 文龍彩중령 임명」” (韓国語). 国史編纂委員会. 2021年5月25日閲覧。
  12. ^ 佐々木 1976, p. 207.
  13. ^ 국방부 군사편찬연구소 編 (2002). 6·25전쟁 50주년기념 한국전쟁사의 새로운 연구 2. 국방부 군사편찬연구소. p. 33 
  14. ^ 박동찬 2014, p. 103.
  15. ^ “文(문) 司令官(사령관) 事務引繼(사무인계)” (朝鮮語). 부산일보. (1952年8月13日). http://www.busan.com/view/busan/view.php?code=19520813000037 2021年5月25日閲覧。 
  16. ^ 陸軍本部 1956, p. 306.
  17. ^ “泗川事件 被害者에 十二師團서 弔慰金” (朝鮮語). 부산일보. (1957年3月4日). https://www.busan.com/view/busan/view.php?code=19570304000036 2022年11月12日閲覧。 
  18. ^ “政府人事” (朝鮮語). 부산일보. (1959年3月21日). http://www.busan.com/view/busan/view.php?code=19590321000011 2021年5月25日閲覧。 
  19. ^ “1962년 미 대사관 기밀문건 7/22” (朝鮮語). 新東亜. (2010年3月3日). https://shindonga.donga.com/3/all/13/109221/7 2021年5月25日閲覧。 
  20. ^ 岩海外事情調査所 編 編『朝鮮要覧 1960年版』武蔵書房、1960年、61頁。NDLJP:12192567/39 
  21. ^ 岩川隆 著 編『忍魁・佐藤栄作研究』徳間書店、1984年2月、151頁。NDLJP:12192567/77 
  22. ^ “[명단] 친일인명사전 수록 대상자 4776명” (朝鮮語). オーマイニュース. (2008年4月29日). http://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000889220 2021年5月5日閲覧。 

参考文献

  • 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。 
  • 飯倉江里衣『満州国軍朝鮮人の植民地解放前後史 日本植民地下の軍事経験と韓国軍への連続性』有志舎、2021年。ISBN 978-4-908672-47-7 
  • 憲兵史編纂委員 編 (1952). 韓國憲兵史. 憲兵司令部 
  • 陸軍本部 編纂 (1956). 六・二五事變 後方戰史(人事篇). 陸軍本部軍史監室 
  • 친일인명사전편찬위원회 編 (2009). 친일인명사전 2. 친일문제연구총서 인명편. 민족문제연구소. ISBN 978-89-93741-04-9 
  • 박동찬 (2014) (PDF). 통계로 본 6·25전쟁. 국방부 군사편찬연구소. ISBN 979-11-5598-010-1. https://www.imhc.mil.kr/user/imhc/upload/pblictn/PBLICTNEBOOK_201408070704130850.pdf 
  • 江頭幸 編 編『満洲国軍憲兵の懐古 : 五族の憲兵』満憲会記録刊行事務局、1984年4月。NDLJP:12397510 
軍職
先代
-
文容彩
大韓民国の旗 大韓民国陸軍憲兵学校校長
代理:1949.1.16 - 1949.3.16
初代:1949.3.16 - 1949.6.4
次代
文容彩
張興
先代
宋冕洙
(文官)
大韓民国の旗 大韓民国陸軍本部政訓監
第2代:1950.4.5 - 1950.6.10
次代
文履禎
(代理)
先代
-
大韓民国の旗 大韓民国陸軍京畿道地区兵事区司令官
初代:1950.10.23 - 1950.11.5
次代
金完龍
先代
李炯錫
崔甲中
大韓民国の旗 大韓民国陸軍本部戦史監
第5代:1952.2.27 - 1952.5.5
第7代:1952.11.20 - 1953.5.20
次代
申明憲
車虎城
先代
金埈元
大韓民国の旗 大韓民国陸軍慶尚南道地区兵事区司令官
第6代:1952.8.12 - 1952.10.25
次代
厳柱明