忍海 (僧)
忍海(にんかい)は、江戸時代中期の浄土宗の僧。敬首門下。江戸増上寺宝松院9世[3]。絵画を得意とし、服部南郭等と交流があった。 生涯出家元禄9年(1696年)生まれ[4]。江戸の人[2]。父の命で絵師某に画業を学んだ[5]。絵師の娘に好意を寄せられ、乳母や血書を通じてアプローチされるも、これを拒絶し続けたところ、娘は病んで死去し、行灯の陰や枕元に生霊として現れるようになったため、出家を決意したという[5]。享保初年(1716年)頃、両親の反対を押し切って増上寺の諸学社を当たるも、多くにはまだ若いとして断われたが、鉄船和尚に熱意を認められ、剃髪・受戒し、忍海の号を授かった[6]。 その経緯が細川有孝正室清涼院の耳に入り、その援助を受けながら仏教・儒教・道教書を読み漁り、同じ頃服部南郭とも交流して漢学を学んだ[6]。「光明真言儀軌」を偽書と論じる享保3年(1718年)刊『光明真言儀軌弁妄』を読んで感銘を受け、その著者敬首に師事した[6]。 西遊敬首が当麻曼荼羅について講義する際、諸本の異同について疑問を呈したため、寛保3年(1743年)奈良に伝来する平安時代中期頃の作品を入手し[7]、延享2年(1745年)には諸本調査のため上方に旅立った[8]。明兆が山水画の着想を得たという東福寺を訪れることも旅の目的だった[8]。 5月15日二上山當麻寺を訪れて当麻曼陀羅4本を調査した後[7]、京都に戻り、6月23日禅林寺本を拝観、7月15日大雲院義淵竜から『当麻重新曼荼羅縁記』を授けられ[4]、源信作と伝わる30本以上を調査した[9]。8月当麻寺を再訪し、北宝院恵音法印から変相の秘伝を伝授された[7]。当麻寺曼陀羅堂厨子内の文亀本は損傷が激しかったため、義山・性愚による貞享4年(1687年)本への掛け替えを提案し、10月知恩院入信院で絵仏師洞玄に修復を依頼し、原本になかったと思われる金泥を除去した上、延享3年(1746年)2月厨子内に安置された[10]。 宝松院延享年間、増上寺貫主了般の命で宝松院院主となり、管下の飯倉天満宮の社殿を改築した[11]。寛延元年(1748年)8月25日、敬首の臨終に当たり、宗旨の安心、法門の趣を伝授された[12]。宝暦2年(1752年)増上寺末浅草清光寺に伝恵心僧都作阿弥陀如来座像を寄進した[13]。 宝暦8年(1758年)頃成立『冬至梅宝暦評判記』に絵師として掲載され、絵の技量を評価される一方、潤筆料の高さを皮肉られている[3]。宝暦9年(1759年)8月細川興里正室清源院主催の細川幽斎150回追善歌莚に参加した[14]。 宝暦11年(1761年)夏軽い病に罹って以来病状が悪化し、6月17日西を向いて念仏しながら入寂し、浅草芝崎町称往院に葬られた[15]。昭和2年(1927年)寺は世田谷区烏山寺町に移転し、墓は墓地最奥部に現存する[16]。 作品絵画
著書
模写・挿絵![]() ![]()
筆録
逸話道場を華美に飾り、冬には香炉、夏には香水を備えた[24]。千手観音の申し子として、自らも千手観音を篤く敬った[11]。 仏具を異なる目的に流用することを嫌い、もし弟子が誤って流用すれば、その仏具は二度と用いなかった[24]。飯倉天満宮を改築した際、ある人が旧部材を買い取って町内の天満宮の部材に用いたいと願い出たが、これを許さず、新社殿の側に放置して腐らせたという[38]。 古仏を収集し、京都では秘仏を見るために賄賂も辞さなかった[13]。 30年間使用していた寺男が酒好きで、「これを捨てておいで」と命じると容器ごと捨ててくるなど抜けたところがあったが、愛嬌として受け入れていた[39]。 霊厳寺住持が忍海の下を訪れ、「妄念をどうしても払拭できない」と相談した。忍海は「まよひぬる心の外に道もなし」と念仏して帰るよう助言した[40]。 病気がちで、訪問客がある度に疲労困憊していた[11]。食も細く、香の物・納豆等を好んだ[11]。 蘭・梅の墨画のほか、篆書・印章を得意とした[11]。人の依頼を断らず、部屋には常に絹や石が溜まっていたが[11]、ある時大名の来訪を受け、酒席で席画を求められた際には、「町絵師のすることだ」として断った[41]。 敬首の影響で戒律を重視し[42]、毎月15日晦に布薩を行い、しばしば増上寺貫首・大僧正も参加した[39]。京都では多くの高僧に師事し、律儀を重んじて「六物諸書」「教誡儀」「天台戒疏」について講義したほか、密教に入信して十八道を修めた[6]。 毎年12月13日江戸で煤払いが行われる日には無礙庵で掃塵会を催し、服部南郭・智了・曇海・耆山等が参会し[43]、外部からは陶淵明が慧遠を訪ねた故事に擬えて「廬山陶謝集」とも名付けられた[44]。 この他、本多忠統[45]、秋元小丘園[46]、石島筑波[47]、龍草廬[48]、耆山[49]、祥水海雲[50]、太宰春台[51]等と交流があった。 弟子家族脚注
参考文献
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