徐甲虎
徐 甲虎(ソ・ガポ、朝鮮語: 서갑호、1914年3月21日 - 1976年11月22日)は、主に関西地方で活動した在日韓国人の実業家[1][2]。日本・阪本紡績、韓国・邦林紡績の創業者。本貫は達城徐氏[3]。日本名は阪本 栄一。 生涯1914年3月21日に日本統治時代の慶尚南道の蔚州郡三南面で生まれた。彦陽公立普通学校(現・彦陽高等学校)を卒業後、1929年に単身渡日し、商家の丁稚、飴売り、廃品回収、タオル工場の工員などの職業を転々としながら繊維産業のノウハウを蓄積し、第二次世界大戦末期に軍需物資の取引で富を得て繊維工業に参入した。戦後の朝鮮帰国者に対する財産搬出制限により、所有財産を朝鮮に移転できなかったため日本に残り、1948年に大阪府で阪本紡績を設立し、朝鮮特需で資本を蓄積した[4]。また、サンフランシスコ講和条約発効以降は金溶植からの連絡により、韓国銀行東京支店から必要資金を借り入れて駐日デンマーク公使の邸宅(元松方正義邸)を購入し、駐日大韓民国代表部(現・駐日本国大韓民国大使館)に貸与した[2]。1962年にこの駐日大韓民国代表部の敷地と建物を大韓民国に寄付し、本国投資を本格化した[4]。1963年1月には韓国産業銀行のもとにあった泰昌紡織株式会社を買収し、阪本紡績株式会社を設立し、1967年に社名を邦林紡績株式会社へと変更し、韓国における紡績業の発達に大きく関わった[1]。しかし、韓国での評価は芳しくなく、1971年に韓国国会では新民党の議員[誰?]から不正蓄財の追及を受けていた[4]。 三清洞の自宅にて63歳で死去した[5]。墓所は2回の改葬を経て現在は韓国慶尚北道永川市の万仏寺にある[6]。 栄誉・栄典
家族現在の蔚山市にて徐珠魯と朴畢願の三男として1914年に生まれた。朴外得(密陽朴氏)と大阪府泉佐野市で結婚し、三男三女をもうけた。
その他麻布十番の駐日大使館敷地を購入した理由は、1947年に日本国籍を剥奪され、王族名簿からも除外された李垠に対し住居を提供する目的だったという[7]。 脚注
参考文献
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