後鳥羽院下野(ごとばのいんのしもつけ、生没年不詳[* 1])は、鎌倉時代初期の女流歌人。女房三十六歌仙の一人。日吉社小比叡禰宜祝部允仲の娘。源家長の妻。源家清、藻璧門院但馬の母。信濃とも呼ばれた。
経歴
皇后宮(坊門院範子内親王)に出仕後、1203年(建仁3年)頃、後鳥羽院に出仕、翌1204年(元久元年)頃、後鳥羽院歌壇の有力メンバーであり『新古今和歌集』編纂にも携わった源家長の妻となり、歌人として頭角を顕す。当初は信濃と呼ばれたが、1206年(建永元年)8月までには下野と呼ばれるようになっている[1]。『新古今和歌集』以降の勅撰集、歌合等に作品を残している。
逸話
- 夫の家長は、『源家長日記』中で、13世紀初頭の歌壇状況として、殷富門院大輔が世を去り、二条院讃岐、三河内侍、宜秋門院丹後、小侍従らが高齢化して、女流歌人が少なくなったという後鳥羽院の嘆きを伝えつつ、七条院越前、宮内卿、俊成卿女、八条院高倉、七条院大納言等が新たに頭角を顕してきたと述べている。これは、後鳥羽院歌壇期待の新人でもあった妻に向けて書かれたのではないかと考えられている[2]。
- 後鳥羽院が配流先の隠岐から、都の歌人十五名に十題十首の和歌を求め、自らの詠歌と判を加えて八十番の歌合とした『遠島御歌合』に、下野も十首を詠進している。その中の「時雨」題の一首について、
右 勝 下野
忘られぬ昔は遠くなりはてて 今年も冬ぞしぐれきにける
— 『遠島御歌合』 時雨 四十五番
- 後鳥羽院は「昔は遠く」に強い情趣を感じて勝としている。これはこの歌合の中で下野が藤原隆祐に対して収めた唯一の勝となった[3]。
- 後鳥羽院配流後も、下野は「院を追慕し、その帰京までの団結を深め」ていた院の近臣グループに近い立場だったとされる[4]。更に院の没後も、六条派、反御子左派、そして後鳥羽院近臣グループが集った『春日若宮社歌合』に参加する等、反主流派的な立位置ながら歌壇とのつながりが継続していたことがわかる。『春日若宮社歌合』では、
右 勝 下野
消あへぬ友待がもに風さえて こほりはてたる庭のゆきかな
— 『春日若宮社歌合』 雪 十三番
右 勝 下野
くるれどもむなしき空をいくかへり おもひしらではながめかぬらん
— 『春日若宮社歌合』 恋 廿六番
- といった歌に寂寥感が漂うのはともかくとして、
右 下野
春日山しられぬ谷の埋木も もえ出る春にいまやあひみん
— 『春日若宮社歌合』 祝 三十九番
- 後嵯峨院の治世を「もえ出る春」と祝ってはいるものの、自らを「谷の埋木」にたとえ、祝賀の歌には相応しくない、むしろ述懐歌のような歌になっている。負の判定を覚悟で、あえて身の不遇を訴えたかったとも考えられる[5]。
作品
- 勅撰集
- 定数歌・歌合
- 私家集
脚注
注釈
- ^ 家長との結婚を二十歳頃として、1185年前後の出生と推定されている(安井(参考文献))。
- ^ 新勅撰和歌集編纂時点で後鳥羽院は配流の身であり、下野の名を記す際にも「院」の文字を冠することが忌避されたため、単に「下野」と表記されたと考えられている(田渕句美子『建礼門院右京大夫試論』三 後半生の女房名をめぐって 『明月記研究 記録と文学 9』 2004年(平成16年)12月)。
出典
- ^ 『明月記』 建永元年八月五日条
- ^ 五味(参考文献)
- ^ 『遠島御歌合』 嘉禎二年七月
- ^ 藤平(参考文献)
- ^ a b c d 藤川(参考文献)
- ^ 位藤(参考文献)
参考文献
関連項目