八条院高倉八条院高倉(はちじょうのいんのたかくら、生没年不詳:1176年(安元2年)頃 - 1248年(宝治2年)以後 1251年(建長3年)以前)は、鎌倉時代初期の女流歌人。新三十六歌仙及び女房三十六歌仙の一人。藤原南家貞嗣流、藤原通憲(信西)の孫で安居院法印澄憲の娘。 経歴出生については、兄海恵と同じく、二条天皇中宮であった高松院(姝子内親王)に澄憲が密通して生まれた[* 1]ことが近年明らかにされた[1]。1176年(安元2年)の高松院急死は、高倉誕生に伴うものであった可能性がある[2]。藤原俊成に預けられる形で[3]、高松院の姉である八条院(暲子内親王)に出仕、後鳥羽院歌壇で活躍する。『新古今和歌集』以降の勅撰集、歌合等に作品を残している。八条院の死(1211年)に伴い出家、奈良法華寺に入り空如と号した。1237年(嘉禎3年)『覚寛法印勧進七十首』のため詠進した歌に、
とあることから、1237年(嘉禎3年)頃に60歳過ぎ[* 2]とわかる。法華寺で仏舎利を護持しつつ晩年を送り、ここで生涯を終えた[* 3]。 逸話法華寺の尼となった高倉は、東寺の仏舎利一粒を所持していた。唐招提寺に参籠した折、舎利の真贋を試したいと鉄槌で舎利を打ったところ、五打にして微塵に砕けたがその破片の一つ一つから光明を発する奇瑞を見た。高倉は疑念を抱いたことを悔い、舎利の破片を集めて、以前に増して恭敬供養したという[4]。 作品
脚注注釈出典参考文献
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