嘉陽門院越前(かようもんいんのえちぜん、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の女流歌人。女房三十六歌仙の一人で、伊勢神官大中臣公親の娘。伊勢女房、七条院越前とも呼ばれた[1]。
経歴
後鳥羽院の生母である七条院藤原殖子に出仕、後に後鳥羽院息女嘉陽門院に出仕した。1200年(正治2年)の『院後度百首』、1202年(建仁2年)の『千五百番歌合』に抜擢され、後鳥羽院歌壇で活躍。『新古今和歌集』以降の勅撰集、歌合等に作品を残している。後嵯峨院主催の1247年(宝治元年)の『院御歌合』にも出詠しており、歌人として長期にわたる活動が窺える。
逸話
- 1247年(宝治元年)『院御歌合』(『仙洞十首歌合』『百三十番歌合』とも)は、後嵯峨院の命により、二十六人の歌人が十題十首を詠進し、評を付けられたものだが、この歌合において嘉陽門院越前は、御子左家の総帥たる藤原為家に対して、勝9持1[2]という異例の圧勝を収めている[* 1]。
作品
- 勅撰集
- 定数歌・歌合
- 私撰集等
- 私家集
脚注
注釈
- ^ これについては、判者でもあった為家が、何らかの意図をもって欠点の明らかな自詠を提出し、わざと越前に負けたのではないかとの指摘もある(位藤邦生 「和歌の読解と作歌環境-『院御歌合』を例にして-」『国語と教育』第32号 2007年11月)。
出典
- ^ 『明月記』 正治二年一一月七日条
- ^ 藤川(参考文献)
参考文献
関連項目