式部卿 (イングランド)
式部卿(しきぶきょう、英語: Lord Great Chamberlain)はイギリスの国務大官の6位にあたる官職で、王璽尚書の下、大司馬の上にあたる。大侍従卿と訳される場合もある。 伝統的にはウェストミンスター宮殿を管理するものの、1965年の改革によりその権力は君主の住居とウェストミンスター・ホールに限定された[1]。 概要公式の場合では赤い宮廷制服を着て、職務のしるしとして金色の鍵と白い杖を持つ。 式部卿の職は世襲であり、1780年より「属人的」(in gross)とされる。すなわち、式部卿の職務を執る人間はどの時点でも1人であるが、式部卿の職を部分的に継承している多数の人物は技術上では「共同世襲式部卿」(Joint Hereditary Lord Great Chamberlain)であり、職務を執る権利は継承権を有する人物の間で順番に行使される。例えば、第7代チャムリー侯爵は継承権のうち2分の1を有するため、君主2人毎に1回職務を執るか副式部卿を任命する権利を行使できる。 副式部卿(Deputy Lord Great Chamberlain)とは式部卿の継承権がないにもかかわらず、その職務を執る人物のことであり、歴史上では式部卿の継承権を有する女性が(貴族院議員になれなかったため)夫や息子を任命しているケースがある。ただし、女性が貴族院議員になれないという制限は1963年貴族法により廃止されている[2]。 式部卿は世襲でない宮廷職である宮内長官(Lord Chamberlain)とは別であり、宮内長官は14世紀に式部卿の副官として創設され、王室の家政における式部卿の職務にあたったが、現代では関係が薄くなっている。 1999年貴族院法により世襲貴族は貴族院における議席を自動的に得る権利を失ったが、式部卿と軍務伯は儀礼の職務を果たす必要があるため、両職についている世襲貴族はその対象外と定められた。 歴史![]() 最初の式部卿はウィリアム征服王の戦友ウィリアム・マレットの息子ロバート・マレットだったが、彼は1133年にイングランド王ヘンリー1世に罷免され、代わりにオーブリー・ド・ヴィアー2世を任命した[3]。オーブリー・ド・ヴィアー2世の息子オーブリー・ド・ヴィアーはオックスフォード伯爵に叙され、以降歴代オックスフォード伯爵が(大逆罪により罷免され中断した時期はあったものの)式部卿の官職を継承した[3]。しかし、1526年に第14代オックスフォード伯爵ジョン・ド・ヴィアーが死去、6等親のジョン・ド・ヴィアー(14代伯の祖父の弟の孫)が第15代オックスフォード伯爵になると、国王ヘンリー8世は式部卿の官職を国王所有と宣言し、第15代オックスフォード伯爵を1代限りで式部卿に任命した[3]。1540年に第15代オックスフォード伯爵が死去すると、ヘンリー8世は側近の初代エセックス伯トマス・クロムウェルを式部卿に任命した[4]。同年にクロムウェルが処刑されると、しばらくは宮廷の人物が任命されたが、メアリー1世の治世になって第16代オックスフォード伯爵ジョン・ド・ヴィアーが1代限りで式部卿に任命された[5]。その後、メアリー1世はオックスフォード伯爵家に式部卿の世襲権があるとの裁定を下し、エリザベス1世もそれに従った[3]。 第16代オックスフォード伯爵の後は17代伯、18代伯と続いたが、1626年に18代伯が死去すると、オックスフォード伯爵は7等親であるロバート・ド・ヴィアー(18代伯の曾祖父の弟の孫)が継承した。チャールズ1世は女系ながら5等親である第14代ウィラビー・デ・エアズビー男爵ロバート・バーティー(18代伯の祖父の妹の息子)が式部卿を継承するとの裁定を下した。以降はリンジー伯爵家(1715年にアンカスター=ケスティーヴァン公爵家に昇格)が継承したが、1779年に第4代アンカスター=ケスティーヴァン公爵ロバート・バーティーが子供なくして死去した。継承者には叔父ブラウンロー・バーティーと2人の妹(プリシラとジョージアナ)がおり、公爵の爵位は叔父が継承したものの貴族院は2人の妹が共同で式部卿の継承権を有し、副官を任命して職務を全うすることができると裁定した。ウィラビー・デ・エアズビー男爵の爵位については2人の妹の間で停止状態になったが、1780年3月18日にプリシラが継承するとの裁定が下され解消された[6]。ジョージアナは後に初代チャムリー侯爵ジョージ・チャムリーと結婚した。以降は式部卿の継承権がプリシラとジョージアナの間で分割され、プリシラの継承権は後に孫娘2人の間で分割され、さらに以降も細分化が進むこととなる。一方、ジョージアナの継承権は第2代チャムリー侯爵、第3代チャムリー侯爵と男子1人による継承が続き、分割されることはなかった。 1901年にヴィクトリア女王が死去すると、式部卿の職務を執っていた初代アンカスター伯爵ギルバート・ヒースコート=ドラモンド=ウィラビー(プリシラの子孫、継承権は4分の1)が自身に式部卿の職の単独継承権があるを主張した[3]。同じく継承権のある初代キャリントン伯爵チャールズ・ウィン=キャリントン(プリシラの子孫、継承権は4分の1)と第4代チャムリー侯爵ジョージ・チャムリー(ジョージアナの子孫、継承権は2分の1)は当然ながら異議を唱え、さらに国王エドワード7世も1526年のヘンリー8世の裁定に基づき単独継承権を主張した[3]。論争はしばらく続いたが、貴族院は1902年に調査を拒否、1780年の裁定を再確認するに留まった[3]。 1965年に改革が行われ、式部卿の権力がウェストミンスター宮殿の全体から一部に限定された[7]。 2022年9月の王の代替わり以降、7代キャリントン男爵ルパート・キャリントンが式部卿を勤めている[8]。ルパートは、2018年11月に貴族院議員として貴族同士の選挙において選出されていたので、式部卿就任以前から貴族院議員であった。ルパートは、母親から継承権を継ぎ式部卿を勤めた初代リンカンシャー侯爵・3代キャリントン男爵チャールズ・ロバート・ウィン=キャリントンの娘5人の子孫ではなく、3代キャリントン男爵の同母弟(第4代キャリントン男爵)の曽孫である。 式部卿(1130年 – 1779年)共同世襲式部卿(1780年以降)
下記では各継承者の有する継承権を分数で示しており、太字は2022年時点で継承権を有する人物を示す。
式部卿の職務を執った人物(1780年以降)
脚注
外部リンク
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