平民社平民社(へいみんしゃ)は、明治日本で、非戦論を中核として結成された社会主義結社。中心人物は幸徳秋水と堺利彦。『平民新聞』(1903年創刊)は同社が発行した週刊新聞。 概要1903年(明治36年)、日露戦争開戦を支持する対露同志会や七博士意見書などの攻勢とそれに対する世論の支持を見て、それまで非戦論を主張していた『萬朝報』が、社論を開戦論へと転換したため、これに異議を唱えた同紙記者の幸徳秋水と堺利彦(枯川)が、非戦論の主張を貫くために萬朝報の発行元である朝報社を退社。改めて非戦論を訴え、社会主義思想の宣伝・普及を行うために1903年(明治36年)10月27日[1]、平民社を設立した。 形態は新聞社で、小島龍太郎や加藤時次郎、岩崎革也らが資金援助を行い、結成約一ヶ月後に「平民新聞」創刊に漕ぎ着けたが、社会主義者と社会主義支援者らのセンターの役割を担い、事実上、社会主義協会と共に社会主義運動の中心組織であった。 幸徳秋水は、2014年(平成26年)現在のJR大塚駅北口広場近くにあった借家に住んでおり、平民社は同地を拠点としていた(写真)。住居兼新聞社であった。 平民社は、週刊『平民新聞』を発行し、同紙は、1903年(明治36年)11月15日[1]発行の第1号から、日露戦争さなかの1905年(明治38年)1月29日[1]発行の第64号まで刊行された。また、平民新聞の終刊後は消費組合直行団の機関紙であった『直言』を毎週発行という形で平民新聞の事実上の後継として発行している[2]。荒畑寒村の自伝によれば、このような形になったのは後継紙の新創刊という形では当局の許可が下りなかったためであるという。 週刊『平民新聞』第1号(11月15日)には、「平民社同人」の署名のある「宣言」と、堺と幸徳の署名のある「発刊の序」が掲載されている。「宣言」では、平民社が今後、「平民主義・社会主義・平和主義」を唱えていくことが述べられている。この二つの文書は、1901年(明治34年)に幸徳らによって結成されながらも直ちに禁止された社会民主党の「社会民主党宣言書」の精神を引き継ぎ、その後の日本における社会主義運動に大きな影響を与えたものであった。 『平民新聞』3月13日に社説「与露国社会党書」を掲載、手を携え共通の敵軍国主義とたたかうことを提言した。3月27日社説「嗚呼増税」を掲載、軍国制度・資本制度・階級制度の変改を主張し、発禁処分を受ける(今村恭太郎裁判官1904年4月5日判決)。 1904年(明治37年)7月には、週刊『平民新聞』の直接購読者は1400名となる[3]。 週刊『平民新聞』第53号(1904年(明治37年)11月13日)には、新聞創刊1周年の記念として、堺と幸徳の共訳で『共産党宣言』が訳載された。翻訳はサミュエル・ムーア訳の英語訳からの重訳。日本における最初の『共産党宣言』の翻訳であった。 週刊『平民新聞』は、第1面に英文欄を設け、アメリカ合衆国やイギリス、ロシアの社会主義者らへ情報の発信をおこない、国際的な連帯を訴えた。 その成果のひとつは、戦争中の1904年(明治37年)8月にアムステルダムで開催された第二インターナショナルの第6回大会で、片山潜とロシア代表のプレハーノフが共に副議長に選出されて会議場で握手を交わし、社会主義者の国境を越えた連帯と協力を確認したことである。この握手は国際的連帯の成果として週刊『平民新聞』は勿論、各国の社会主義陣営の機関誌等で報道された。また、翌1905年には『直言』第7号でエスペラント語を紹介している[4]。 日露戦争非戦の主張は官憲に目をつけられることとなり、『直言』は第32号をもって廃刊[3]。財政難に陥った上、唯心論と唯物論との内部闘争もあって[3]、戦争終結後の1905年(明治38年)10月9日[1]、平民社は活動2年足らずで解散することになった(ただし、第二次世界大戦期のことを思えば非戦論の新聞が二年弱刊行を続けられたのは官憲が昭和期より寛容であったともとれる。黒岩比佐子は日本が言論の自由が認められた文明国であるということを国際社会に示すためあえて当局が黙認していたとみている)。 1907年(明治40年)1月15日[1]に日本社会党の機関紙・『日刊平民新聞』の発行所として再興するが、当局の激しい弾圧にあって同紙は同年4月14日[1]に廃刊、僅か3ヶ月で再び解散となる[3]。翌年、三度再興するが1910年(明治43年)3月に解散。 幸徳事件で主要メンバーの大半を失った。 関連文献
関連項目脚注外部リンク
※データベースのページで平民社関連の史料を公開している。
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