市川正二郎

いちかわ しょうじろう
市川 正二郎
本名 牧野 正 (まきの ただし)
別名義 市川 小松 (いちかわ こまつ)
木村 正二郎 (きむら しょうじろう)
生年月日 (1913-01-09) 1913年1月9日
没年月日 2003年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草
死没地 日本の旗 日本 京都府京都市右京区
身長 160.6cm
職業 俳優実業家
ジャンル 歌舞伎子役)、劇映画時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1918年 - 1947年
配偶者
主な作品
伊太八縞
槍供養
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市川 正二郎(いちかわ しょうじろう、1913年1月9日 - 2003年)は、日本の俳優実業家である[1][2][3][4][5]。本名牧野 正(まきの ただし)、旧芸名市川 小松(いちかわ こまつ)、木村 正二郎(きむら しょうじろう)[1][2][3][5]

人物・来歴

1913年(大正2年)1月9日東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に生まれる、とされている[1][3]。『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』(映画世界社)では、生年は「大正元年三月一日」(1912年3月1日)、生地は長野県松本市、本名は「荒木 正(あらき ただし)」である旨が記されている[2]

1918年(大正7年)、数え年6歳のころに二代目市川松蔦に入門し、「市川 小松」の名で舞台に立つ[1][3]。初舞台は明治座『重の井の別れ』である[2]。その後、東京府立第七中学校(旧制中学校、現在の東京都立墨田川高等学校)にするも、中途退学する[1]。1932年(昭和7年)2月1日、数え年20歳(満19歳)のときに、師匠の承諾を得て京都・太秦新興キネマ(のちの新興キネマ京都撮影所、現在の東映京都撮影所)に入社して「木村 正二郎」と改名、同年6月30日の公開された、長谷川伸原作、松田定次監督による『伊太八縞』を「第1回主演作品」として映画界にデビュー、同作での相手役は山路ふみ子であった[1][2][3][5][6]。翌1933年(昭和8年)8月3日公開の松田定次監督による主演作『半次月夜の唄[4]、あるいは同年8月9日公開の広瀬五郎監督による主演作『雪の肌蜻蛉組[1][2][3]をもって、「市川 正二郎」と改名する[4]。同社と提携していた、嵐寛寿郎プロダクション作品にも出演し、嵐寛寿郎主演映画の脇役を務めた[4]。1934年(昭和8年)6月14日公開、山上伊太郎監督の『兵学往来髭大名』を最後に、同社を退社する[4]。同年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』によれば、京都府京都市右京区鳴滝中道町に住み、身長は5尺3寸(約160.6センチメートル)、体重は13貫500匁(約50.6キログラム)、趣味は麻雀ピクニックで、中華料理が嗜好であるという[2]

同年夏、日活京都撮影所に移籍、同年9月23日公開、同撮影所が製作した辻吉郎監督の『槍供養』に主演する[4]。当初は主演作もあったが、次第に片岡千恵蔵阪東妻三郎等の剣戟スター主演作の脇役にまわるようになる[4]。当時はすべてサイレント映画であったが、1935年(昭和10年)12月1日に公開された、日活・太秦発声映画共同製作、児井英男(のちの映画プロデューサー児井英生)・池田富保共同監督による黒川弥太郎主演作『敵討三都錦絵』に出演し、これが正二郎にとっての「トーキー初出演」となる[4]。以降の出演作はすべて、トーキーとなった[4]。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、日活京都撮影所は大映京都撮影所となり、同年2月19日公開、丸根賛太郎監督の『江戸の龍虎』に出演したのを最後に、同社を退社する[1][3][4]

第二次世界大戦中は、召集を受けて軍隊に入ったり、除隊して舞台実演の巡業を行なったりを繰り返していたが、終戦後、1947年(昭和22年)に俳優生活からリタイアした[1][3][4]。翌1948年(昭和23年)に結婚し、書店経営等を行なっていたが、埼玉県熊谷市の老舗「廣川」からのれん分けし、1967年(昭和42年)、京都府京都市右京区嵯峨に「うなぎ屋 廣川」を開業した[1][3][7]。以降の正二郎の消息は不明[1]とされていたが、2014年(平成26年)に発行された『日本映画美男俳優 戦前編』(ワイズ出版)によれば、後に同店を息子に譲り、2003年(平成15年)に死去したとされている[3]。満89-90歳没。尚、同店は2017年(平成29年)7月現在も営業中である。子女は2男1女をもうけた。

フィルモグラフィ

すべてクレジットは「出演」である[4][5]。役名のわかるものは公開日の右側に記し[4][5]東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8]

初期

役名等、詳細は不明であるが、初期に出演歴がみられるものを列挙した[4]

新興キネマ

特筆以外すべて製作・配給ともに「新興キネマ」である[4][5]。「木村正二郎」名でクレジットされたものには明記した[5]

日活京都撮影所

特筆以外すべて製作は「日活京都撮影所」、配給は「日活」である[4]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k キネマ旬報社[1979], p.54.
  2. ^ a b c d e f g 映画世界社[1934], p.25-26.
  3. ^ a b c d e f g h i j ワイズ出版[2014].
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 市川正二郎日本映画データベース、2012年11月16日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g 木村正二郎、日本映画データベース、2012年11月16日閲覧。
  6. ^ 伊太八縞、日本映画データベース、2012年11月16日閲覧。
  7. ^ ご挨拶、うなぎ屋 廣川、2012年11月16日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k 市川正二郎東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月16日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク