川西航空機
川西航空機(かわにしこうくうき)は、かつてあった日本の航空機メーカーであり、現在の新明和工業の前身である。九四式水上偵察機、九七式飛行艇、二式飛行艇、紫電改などの海軍用航空機を製造した。特に水上機と飛行艇に定評を持つメーカーとなった。[1] 歴史日本毛織(ニッケ)の創業者川西清兵衛は、中島飛行機の創業者中島知久平が立ち上げた『飛行機研究所』に出資したが、1919年(大正8年)、金銭トラブルをきっかけに出資を引き上げ、別々の道を歩むことになる。 →詳細は「中島飛行機 § 沿革」、および「中島知久平 § 略歴」を参照
清兵衛は飛行機研究所改め「日本飛行機製作所」から手を引いた際に得た資金で、中島に対抗し得る新たな飛行機メーカーを作ることにし1920年(大正9年)2月、川西倉庫本社内に川西機械製作所を設立し飛行機部を設置した。飛行機部の責任者として、清兵衛の次男の川西龍三が就き、日本飛行機製作所改め中島飛行機製作所から引き抜いた若手技術者らと切磋琢磨した。 1928年(昭和3年)、川西機械飛行機部は川西航空機株式会社として独立した。当初はイギリスのショート・ブラザーズ社と提携し、同社設計の飛行艇、もしくはその改良型を生産していた。一方で完全国産化を目指し、ドイツの飛行機製作の権威であるアーヘン工科大学航空力学実験所長テオドル・フォン・カルマン博士を招いて、川西風洞実験所に民間唯一となる直立式試験風洞を設計した[2]。 1930年(昭和5年)、工場を武庫郡鳴尾村(現西宮市)に移転(鳴尾製作所)。軍用機開発を通じて帝国海軍と密接な関係となり、以後軍部は川西を大型飛行艇メーカーとして育成していく。1931年(昭和6年)、ショートKF型飛行艇を改良した九〇式二号飛行艇の初飛行に成功。開発にあたっては、ショート社から技術者の派遣を受けた。1933年(昭和8年)には、後の九七式飛行艇の系譜につながる試作機『八試大型飛行艇』を受注した。 →詳細は「九七式飛行艇 § 開発経緯」を参照
1938年(昭和13年)に海軍管理工場となる。 また戦闘機の分野にも進出し、水上戦闘機の強風、陸上戦闘機の紫電を開発。 →詳細は「紫電改 § 強風から紫電へ」を参照
1942年(昭和17年)、兵庫県武庫郡本庄村(現・神戸市東灘区)に鳴尾製作所の分工場となる甲南製作所(現・新明和工業甲南工場)が完成。また姫路市の国鉄播但線京口駅に近いところにあったニッケの工場が譲渡され、姫路製作所となった。 →詳細は「本庄村 (兵庫県武庫郡) § 川西飛行機甲南製作所」を参照
1943年(昭和18年)には鳴尾製作所に隣接した鳴尾競馬場及び鳴尾ゴルフ倶楽部の土地も接収され、鳴尾飛行場及び川西飛行機の生産用地として使用された。鳴尾村近辺は軍需村となり、国民徴用令による勤労動員あるいは学徒動員、さらには朝鮮半島からの朝鮮人徴用などといった国家総動員体制によって従業員は6万人を超えた。軍の要請で従業員および資材輸送のために鉄道も建設され(阪神国道線及び国鉄東海道本線へ接続)、現在の阪神武庫川線となった[3]。 →詳細は「宝塚記念 § 旧阪神競馬場の突然の休止」、および「阪神武庫川線 § 歴史」を参照 →「鳴尾競馬場 § 歴史」、および「徴用 § 日本」も参照
1944年(昭和19年)8月、兵庫県加西郡九会村と下里村(現・加西市)にまたがる敷地に急造された鶉野飛行場に隣接して、姫路製作所の分工場というべき組立工場が完成する。この工場の主力生産品として、ようやくまともな戦闘機となった紫電の改良版である紫電改が開発された。海軍航空技術廠(空技廠)での雷電との比較試験の結果から、海軍は紫電改を零式艦上戦闘機の事実上の後継機として認定し、大量生産を行うべく目論んだ[4]。ただし航続距離の短さからベテランパイロットには不評であったという。もっとも紫電改は元々迎撃機(海軍で言う局地戦闘機)であり、制空戦闘機としては設計されていない[5]。その上、既に大東亜戦争の戦局は絶望的状況になっていて、生産も空襲などで頓挫し、敗戦までの生産数は紫電446機、紫電改44機と少数にとどまった。 →「姫路海軍航空隊 § 沿革」、および「鶉野飛行場 § 概要」も参照
工場川西は鳴尾以外にも甲南製作所(兵庫県本庄村=現・神戸市東灘区)、宝塚製作所(兵庫県良元村=現・宝塚市)、姫路製作所(姫路市)があった。宝塚製作所は、現在JRA阪神競馬場が所在している場所であり、新明和工業本社工場も隣接地にある。甲南製作所は、戦後新明和工業の航空機部品を製造する主力工場となった。 大東亜戦争末期には、4製作所すべてが米軍の空襲を受けて壊滅。このため各製作所が兵庫県や大阪府、京都府の各地に疎開工場を持っていた。代表的な例は以下の通り。 ・甲子園(兵庫県西宮市) ・正明寺地下工場(京都府福知山市) →詳細は「日本本土空襲 § 空襲一覧」、および「阪神甲子園球場 § 周辺の開発と戦火」を参照
このうち、松下航空機会社は松下電器産業(現・パナソニック)が海軍の要請で飛行機の製造を目指して設立した会社だが、同時に川西の下請けも行った。松下航空機の設立には、松下創業者の松下幸之助や後の三洋電機創業者井植歳男らが絡んでいる。 →「明星 (航空機) § 概要」、および「井植歳男 § 松下時代」も参照
1945年(昭和20年)3月、スパイ対策として軍の命令で社名を「神武秋津社」(じんむあきつしゃ)と変更させられる。さらに敗戦直前になって、全事業が海軍に取り上げられ「第二軍需工廠」となった。 戦後第二次世界大戦終結にともない、GHQ指令によって航空機の製造が中止になった。神武秋津社は川西航空機の名前に戻り、海軍に接収されていた事業も取り戻し、民需への転換を急ピッチで進めるべく様々な取り組みを行う。この中から現在も残っているのが、産業機器や水処理ポンプなどの分野である。一方、母体の川西機械も第二会社を設立するなどして民需転換を進めた。 →詳細は「新明和工業 § 産機システム事業部」、および「デンソーテン § 沿革」を参照
1949年(昭和24年)11月に新明和興業株式会社へ社名を変更した。良元村仁川の宝塚製作所跡地は鳴尾競馬場を引き継ぐ形で1949年(昭和24年)に阪神競馬場が建設された。 →詳細は「阪神競馬場 § 新阪神競馬場の開場」、および「宝塚記念 § 再開された阪神競馬場の不振」を参照
その後文字を変えて新明和工業となり、旅客機(YS-11)や飛行艇(PS-1、US-1)など航空機の製造を再開した。現在はUS-2の生産を行っている。 →詳細は「新明和工業 § 航空機事業部」、および「PS-1 § 導入経緯」を参照
年譜
→以後の歴史については「新明和工業 § 沿革」を参照
開発・生産した航空機
関連項目
参考文献
脚注
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