川合貞一
川合 貞一(かわい ていいち、明治3年3月29日〈1870年4月29日〉 - 昭和30年〈1955年〉6月19日)は、日本の哲学者、心理学者。文学博士。慶應義塾大学名誉教授。初代慶應義塾大学文学部長、第2代原理日本社会長。実験心理学者ヴィルヘルム・ヴントの弟子。 経歴明治25年(1892年)に第一回卒業生として慶應義塾大学部文学科を卒業する。新潟県尋常師範学校教授を経て明治29年(1896年)より慶應義塾大学部文学科の教授となる。明治31年(1898年)に慶應義塾が行った第1回のドイツ留学生として選抜され、日本最初の海外留学生としてヴィルヘルム・ヴントの心理学研究室に客員として入室を許された。哲学、教育学及び心理学を研究し、明治36年(1903年)に帰国。明治43年(1910年)に文学科主任、大正6年(1917年)に文学科学長となる[1]。 大学令により大正9年(1920年)に新発足した文学部の学部長となり、予科教授・普通部主任、慶應義塾大学亜細亜研究所顧問を兼任。昭和3年(1928年)に文学博士となり、文部省国民精神文化研究所の哲事嘱託として聘される。 昭和5年(1932年)からは蓑田胸喜の後を継いで原理日本社会長に就任。昭和18年(1943年)を以て慶應義塾大学を退職、翌昭和19年(1944年)に名誉教授となる。 昭和20年(1945年)の終戦後は原理日本社解散のためか3年活動を絶つ。昭和30年(1955年)に名古屋女子短期大学学長に就任するが、その年の6月に脳出血のため86歳で逝去。講義のために準備していた『実践哲学-論理学講本巻一』が未完の絶筆となった。 墓所は小平霊園。 自身について語ることがほとんどなく、手元にあった蔵書や草稿、講義用のノートなども晩年に売却・処分してしまったため、生涯の詳細や著作の全貌を知ることはほぼ不可能になってしまった。阿部隆一は、川合の人柄について「万事に恬澹であり、淡泊であり、水が低きに流れるが如く」と評した。 尚、作家・獅子文六(本名:岩田豊雄)が明治38年(1905年)4月慶応普通部(中学部)に進学した時に、当時「大学部文科部長」だった川合貞一の家(東京府芝区芝二本榎)に下宿しており、川合氏及び家族のことなどの記述が、著書「父の乳」(『主婦の友』1965年1月-1966年12月連載)の中にユーモラスに描かれている[2]。 著書![]() 単著
訳著
論文
参考文献
脚注外部リンク
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