崇仁 (京都市)崇仁(すうじん)は、京都府京都市の地区名。「崇仁地区」と呼ばれる京都駅の東側の一帯(27.4ヘクタール)で、2020年(令和2年)の国勢調査によれば、人口は1380人[1][2][3]。平均年齢は53.9歳、65歳以上人口は38.55パーセントと高齢化が進む[3]。地名は条坊制により中国風に名付けられた「崇仁坊」に由来する[4][5]。長年、差別的な扱いを受けてきた地区として知られ、京都駅に近い好立地ながらも長らく京都の人々から避けられてきた「塩漬け」の土地であったが、京都市立芸術大学の移転を機に再評価が進んでいる[2][6][7]。 歴史崇仁坊崇仁の地名は「崇仁坊」に由来する。崇仁坊は平安京二十坊の一つで、左京(朱雀大路より東)のうち、北・七条大路、南・八条大路、東・東京極大路に挟まれた四坊六四町を総称した[5]。1929年(昭和4年)4月、京都市の行政増設に伴って崇仁南部 東之町・西之町ブロックの学区名を「崇仁」に改称。当該地区を「崇仁地区」と呼ぶようになった[8]。 被差別の歴史崇仁は特殊な職業に就く人や在日コリアンなど、差別的な扱いを受けていた人々の多く住む地区であり、独自のコミュニティを形成し、結果長い間アンタッチャブルな地域として扱われてきた[9]。 16世紀前半、六条河原が処刑場になり河原者と呼ばれた人々数百から千人によって刑務が行われていた。以降、六条河原からの六条郷移転(成立時期は不明)や豊臣秀吉による御土居の築造を経て、江戸時代の1663年、六条郷が松原稲荷町から六条河原役田地へ移転し六条村が成立した[10]。 1698年(元禄11年)、京糸割符仲間は奉行所に銭鋳造の許可を願い出た。七条高瀬川ぎわ6400坪の土地に許しが出たため、1700年(元禄13年)2月13日から寛永通宝の鋳造を開始。1707年(宝永4年)、幕府は鋳造を宝永通宝へと変更するも不評だったため、1709年(宝永6年)1月23日には鋳造を停止した。銅鋳造の跡地は銅気が多く耕作に向かないため、永らく放置された。 1713年(正徳3年)、六条村へ皮張場含め3000坪の柳原庄の土地が渡され、「水車裏」に非人と呼ばれた人々が移転した。1731年(享保16年)には天部村年寄・源左衛門と六条村年寄・与三兵衛が京糸割符仲間が手放した銭座場跡に新しい村を開発することを願い出て、銭座跡村7000坪以上に開発許可が出た。これが今日の崇仁地区南部の起源となった[10][11]。1843年(天保14年)には六条大西組が成立した[10]。 明治に入り、1871年(明治4年)に解放令発布。 1889年(明治22年)には市町村制が施行され、愛宕(おたぎ)郡から紀伊郡に編入され、柳原町となった。住民は既存の銀行を使うことが出来なかったため、1899年(明治32年)合資会社柳原銀行が設立。1907年(明治40年)には柳原銀行は現建物となり、柳原銀行記念資料館として現存し差別の歴史を伝えている[9][10]。銀行自体は1927年(昭和2年)に破産している。1918年(大正7年)、紀伊郡柳原町は京都市に編入された[10]。同年柳原町で米騒動が起き、同地区では被差別者50人以上が逮捕された[12]。 1922年(大正11年)、京都市左京区にあった岡崎公会堂で全国水平社の創立大会が開かれた[3]。全国の被差別部落から約千人が集まり、宣言文を西光万吉が起草し、駒井喜作が読み上げた[3]。現存する宣言文のうち2点を崇仁自治連合会が所有し、柳原銀行記念資料館などに保管されている[3]。宣言文の裏には、創立前の仮本部として崇仁地区の当時の地名が書かれている[3]。仮本部は桜田規矩三の自宅住所と推定され、桜田は初代委員長になる南梅吉と交流を持っていた[3]。桜田自宅近くの旅館で西光らが集まり綱領などの最終確認がなされた[3]。 在日コリアン明治期以降、土地所有を認められた七条の被差別者らが人口増加によって畑地であった東九条地域に進出した。その後を追って、韓国併合を背景に自発的・非自発的に朝鮮半島から渡日した人々が周辺に居住するようになった[13]。東九条は主に在日コリアンが集まる居住区になり、朝鮮料理店が多い[9]。 長らく日本人の被差別者らと在日韓国・朝鮮人の関係は良好と言えるものではなかったが[13]、近年では1993年から開催される「東九条マダン」(マダン〈 마당 〉は朝鮮語で広場の意味)など、日本人と在日コリアンの交流の場が持たれるようになった。東九条マダンは在日コリアンの多い南区東九条で開催されてきたが、26回目の開催となった2018年には初めて東九条を出て下京区旧崇仁小学校で開催した[13][14][15]。 2005年公開の日本映画「パッチギ!」ではリ・アンソンとキョンジャ姉妹の居住する地域に設定され、作内でも同地が度々登場した[16]。 住民の活動高度経済成長期においてもインフラ整備が遅れ、発展から取り残された。住環境は劣悪であったが、1956年に住民の運動を受け、京都市は地区内のバラックを買い上げ改良住宅を建設した。ピーク時には人口は9000人以上に上った[17]。1991年(平成3年)には「崇仁地区の文化遺産を守る会」が、1996年(平成8年)には 「崇仁まちづくり推進委員会」が発足。先述の柳原銀行記念資料館は1997年(平成9年)に開館した[10]。 2015年には地元出身の藤尾まさよを発起人に任意団体「崇仁発信実行委員会」が結成。地域の祭りの歴史や閉校した崇仁小学校の思い出などの地区の記憶に加え、京都芸大及び美術工芸高の移転の進み具合などを伝えるフリーマガジン『崇仁 ~ひと・まち・れきし~』の発行などを通じて人権についての啓発活動を行なっている[18][3]。 2019年9月の京都市による地元説明会では、都市計画の用途地域を変更して容積率などを緩和する素案が示されたが、住民側からは疑問が示された。同年10月には同地区内東九条南河原町にある「THEATRE E9 KYOTO」で、市の素案には地元意見が十分反映されていないとの危機感から劇場関係者らが緊急シンポジウムを開催。地元住民ら100人が参加した。シンポジウムでは、地域の文化活動関係者や識者によって芸術家や地域住民が住むことができる地域づくりの重要性が指摘された[15][19]。 京都芸大と美術工芸高の移転2014年に京都市立芸術大学(京都芸大)の崇仁地区への移転を含む「京都芸大移転整備基本構想」を策定[20]。京都市立銅駝美術工芸高等学校の移転(移転後の校名は「京都市立美術工芸高等学校」)も決まり、2018年には「京都市立芸術大学及び京都市立銅駝美術工芸高等学校移転整備基本設計」が策定された[21]。美術工芸高は鴨川沿いの崇仁小学校のあった場所に新築移転される[21]。崇仁小学校は2010年に閉校しているが、残っていた校舎は解体された[3]。 2001年、市は老朽化した崇仁の改良住宅4棟の建て替えを計画したが、財政難を理由に実現しなかった。しかし、2017年京都芸大のキャンパスを崇仁へ移転することが決まると、市は1年あまりで空き地だった市有地に公営住宅を新設。大学の建設予定地の改良住宅7棟に2021年4月以降の取り壊しが計画されるなど、住人は事実上の立ち退きを迫られることになった[22][17]。改良住宅のうち7棟、さらに崇仁第三浴場などの施設は2020年度までに取り壊された[3]。入居していた144世帯のうち141世帯、店舗9軒のうち4軒が、近隣に造られた風呂付き新築の団地に移った[3]。 崇仁地区への移転が決まってから京都芸大の学生や教職員らは、地域の文化や教育に貢献するために崇仁地区の住民との交流を重ねた[3]。交流をきっかけに共同研究も始まり、地区に伝わる文化が再評価される契機となった[3]。京都芸大附属日本伝統音楽研究センター教授の竹内有一は、崇仁地区に伝わる祭りに欠かせないお囃子の「だんじり」と国の重要無形民俗文化財の「京都の六斎念仏」との共通点を指摘している[3]。 2022年の朝日新聞の記事では、藤尾まさよの 「街が変わることに寂しさはあるが、前に進まざるを得ない。進む限りは良いものを残したい」という発言を紹介[3]。住民側も大学を受け入れるための活動を続けているとした[3]。 京都芸大移転が決まってから、地価は同京都市内の「田の字地区」に匹敵するほどの高騰を見せている[23][24]。 2023年10月1日には皇室の三笠宮彬子女王を招いて京都市立芸術大学移転の記念式典を行い、現在に至る[25][6]。 崇仁新町2018年2月、市は大学移転までの空白期間における崇仁地区の活用のため、「崇仁新町」と名付けられたコンテナの屋台街を建設。出店しているのは地元の若手飲食店主たちで、コンテナの前は飲食スペースになり、奥には芸大生が絵を描いた舞台やたき火のできるイベントスペースなども作られた[26]。 施設出身人物名所・旧跡
脚注
関連項目
外部リンク
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