島泉丸山古墳
島泉丸山古墳(しまいずみまるやまこふん)または高鷲丸山古墳(たかわしまるやまこふん)は、大阪府羽曳野市島泉にある古墳。形状は円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により島泉平塚古墳と合わせて「丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)」として第21代雄略天皇の陵に治定されている。 本項では隣接する島泉平塚古墳(高鷲平塚古墳)についても解説する。 概要大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群の北西部、羽曳野丘陵の最北端から派生した中位段丘上に築造された大型円墳である[1][2]。現在は宮内庁治定の雄略天皇陵として同庁の管理下にあるため、これまでに本格的な調査は実施されていない。 墳形は円形。直径約75メートル・高さ8メートルを測り、円墳としては古市古墳群で最大であり、全国でも有数の規模になる[2]。墳丘は2段築成[1]。整備調査では埴輪・須恵器・土師器などが検出されている[1]。墳丘周囲には周濠(丸山池)が巡らされており、南側では整美な円形、北側では不整形をとるが、南側は修陵時の整形によるもので[2]、北側も拡張されている[1]。埋葬施設および副葬品は明らかでない[1]。 この丸山古墳は、出土埴輪より古墳時代中期の5世紀後半頃の築造と推定される[1][2]。古市古墳群では唯一の大型円墳である点で特筆される古墳になる[1]。被葬者は明らかでないが、前述のように現在は宮内庁により第21代雄略天皇の陵に治定され、隣接する島泉平塚古墳と合わせて前方後円形に整形されている。ただし立地・墳形・規模の点では疑義も指摘されており、雄略天皇の真陵を他古墳に求める説も挙げられている。 遺跡歴
島泉平塚古墳島泉平塚古墳(しまいずみひらつかこふん)または高鷲平塚古墳(たかわしひらつかこふん)は、丸山古墳の東南東約100メートルの位置にある古墳(北緯34度34分33.95秒 東経135度35分11.65秒 / 北緯34.5760972度 東経135.5865694度)[1]。形状は方墳。宮内庁により丸山古墳と合わせて雄略天皇の陵に治定されている[4]。 元治元年(1864年)までは丸山古墳のみが雄略天皇陵とされ、平塚古墳の古墳域は小高い田畑であったという[2]。同年に平塚古墳は雄略天皇前陵として陵域に取り込まれ、後年の修陵で両古墳は合わせて前方後円形に整形された[2]。現在では一辺約50メートル・高さ8メートルの方墳とされ、墳丘は2段または3段築成とされる[1]。埋葬施設は明らかでない[1]。 これまでに古墳であることを示す遺構・出土品は確認されておらず、2010年度(平成22年度)のトレンチ調査においても検出には至っていないため、古墳とすること自体に疑義を指摘する説もある[2]。 被葬者丸山古墳および平塚古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第21代雄略天皇の陵に治定している[5][6][4][7]。雄略天皇の陵について、『古事記』[原 1]では「河内之多治比高鸇」の所在とあるほか、後段[原 2]では顕宗天皇が復讐として雄略陵の破壊を命じたが意祁命(仁賢天皇)は一部を壊すに留めたとする[1]。また『日本書紀』[原 3]では「丹比高鷲原陵」とあり、続けて天皇崩御時に臣下の隼人が陵の側で不眠不休で泣き7日目に死んだので陵の北側に墓を造り葬ったとするほか、後段[原 4]では顕宗天皇が復讐として雄略陵の破壊を計画するも億計尊(仁賢天皇)が思いとどめたとする。『延喜式』諸陵寮[原 5]では遠陵の「丹比高鷲原陵」として記載され、河内国丹比郡の所在で、兆域は東西3町・南北3町で、陵戸4烟を毎年あてるとする[4]。 本古墳を雄略天皇陵に比定する説は、古くは延宝7年(1679年)編纂の『河内鑑名所記』に見え、1885年(明治18年)以降には丸山古墳・平塚古墳が合わせて前方後円形に修陵されているほか、北側の隼人塚古墳(後述)が『日本書紀』に見える隼人の墓に比定され飛地陪冢に治定されている[2]。丸山古墳を雄略天皇陵に比定する説では、当地の地名が丹比郡高鷲原であることが有力な根拠になる[2]。しかし立地・墳形・規模が古市古墳群の大王墓群とは性格を異にする点で問題があり、1970年代には前方部は削平されているとする説が挙げられ[2]、近年では真の雄略天皇陵を岡ミサンザイ古墳(藤井寺市、仲哀天皇陵)に比定する説等も挙げられている[3][8][9][10][2]。本古墳が雄略天皇陵である場合には、雄略天皇は倭王武(倭の五王)にも比定される強力・先進的な大王とされるため、中国南朝の影響を受けて大円墳・横穴式石室の墓制を導入した画期的古墳である可能性が指摘される[2]。 なお、河内大塚山古墳(羽曳野市・松原市、大塚陵墓参考地)について、宮内庁では陵墓参考地として雄略天皇を被葬候補者に想定し[11]、かつては考古学的にも雄略天皇の真陵とする説が有力視されたが、近年では古墳時代後期の築造とする説が定着して雄略天皇陵説は否定的である[3][12]。 陪塚本古墳の陪塚(陪冢)について考古学的には詳らかでない。一方で宮内庁では次の1基を陪冢に治定している[7]。
脚注原典 出典
参考文献(記事執筆に使用した文献)
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