岩崎万次郎
岩崎 万次郎(いわさき まんじろう[注 1]、1852年(嘉永5年)7月[注 2] - 1911年(明治44年)8月2日)[13]は、日本の明治期の政治家。衆議院議員として当選2回。自由民権家として知られる。 概要1852年(嘉永5年)、下野国(現・栃木県)南部の農家に生まれる[14]。若くして地元野木宿の名主や佐川野村戸長を務めたのちに明治法律学校で法を学ぶ[11][13][15]。 1881年(明治14年)自由民権運動に惹かれ自由党に入党したが[16]、運動の激化に伴って加波山事件に関わり、また大阪事件でも嫌疑をかけられて都度数か月収監された[14]。1884年には栃木県会議員に当選し、以降4期務めている[17]。1887年(明治20年)には保安条例により東京から退去を命ぜられた[18]。 1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙に自由倶楽部から出馬し当選した[19]。第2回衆院選も立憲自由党から当選するが、党内で星亨などと確執が生まれ自由党と決裂した[16][20]。 以降は進歩派の政党などに身を置いて盛んに遊説・演説を行ったが、ついに国政には戻らなかった[15]。活動の中で自由民権運動を推進したほか、田中正造と交流を深め足尾鉱毒事件の被害補償に向け尽力した[21]。 1911年(明治44年)東京府・麹町区の自宅で死去。享年60[22]。 自由党[16]、自由倶楽部[19]、立憲自由党[23]、同志政社[24][25]、立憲革新党[26]、立憲改進党[15]、進歩党[27]、憲政本党[28]などの政治組織に所属し、そのうち同志政社[29]、立憲革新党[30]、立憲改進党[15]、進歩党[31]で幹事の任に就き、憲政本党では副常任幹事も務めている[32][33]。 天理教徒であったほか[34]、日本木材株式会社を設立し社長に就任している[11][13]。 経歴出生・青年期1852年(嘉永5年)、下野国都賀郡佐川野村(現・栃木県下都賀郡野木町大字佐川野)の農家である父・助左衛門、母・い奈の長男として生まれる[10][15][35][注 3]。当時の古河藩領主・土井大炊頭に命じられて1866年(慶応2年)の14歳の時に名主見習いに、1870年(明治3年)の19歳の時には野木宿の名主を務めた[16]。 1875年(明治8年)に栃木県師範学校に入学[16]。1876年(明治9年)に館野芳之助とともに卒業[15]。小堤村(現・古河市小堤)出身の館野は佐川野の万次郎とは隣村同士で、同じく近隣の小久保喜七に比べて公私ともに交友が深かった[36]。卒業後は1879年(明治12年)まで小学校教員を務め、父・助左衛門が亡くなると農業を継ぐべく故郷へ戻った[16]。また1882年(明治15年)には岡千仭に入門し、漢学を修めている[11]。1884年(明治17年)に寒川郡の学務委員に命じられて、地方教育行政に関わっている[11][15][注 4]。 政治活動の開始1879年(明治12年)、戸長が官選から公選に替わると[16]、父も務めた佐川野村の戸長に選ばれ、1883年(明治16年)には近隣の川田村・南赤塚村・若林村の戸長も兼務した[15]。しかし政府が再び官選による戸長制度を達した際、万次郎は官選を潔いとせずに任命された戸長を固辞した[16]。 この間の1880年(明治13年)万次郎は上京し、明治法律学校に入学した[11]。法律学を学ぶなかで自由民権運動に染まり[35]、1881年(明治14年)には塩田奥造に誘われて自由党に入党[38]、事情により1年で帰郷した[9][13]。翌1882年(明治15年)には栃木自由党を結成・入党し[15]、その思想を説いて廻った[16]。 地方議員時代・加波山事件1884年(明治17年)6月に栃木県会議員に当選する[15]。しかし自由党急進派による自由民権運動の激化に巻き込まれる。同年7月、万次郎ら大井憲太郎派の17名が福島・茨城・栃木・千葉からおのおの筑波山へ集まり秘密集会が行われた[39][40][41]。これは、鯉沼九八郎ら過激派の栃木県令三島通庸暗殺計画について、先陣を切ろうと団結を志したものであった[39][40]。9月、栃木自由党の本拠である栃木町大和屋半平に突然の過激派出陣の報が伝わる[42][43]。大和屋にいた面々は現状での作戦の有効性を疑問視し、塩田と万次郎がそれぞれ過激派解散の説得に向かった。塩田は下館にて過激派が町屋分署を襲撃したことを知り、遅れた万次郎はそれを途中結城町に至った時点で察知しそれぞれ退却した。しかし塩田は逃げ隠れた先の信州で捕まり、万次郎は佐川野の実家で勾留され9か月の間投獄された[16][42][44]。一連の騒動はのちに加波山事件と呼ばれる。万次郎は取り調べの際、筑波山の会合で挙兵計画が立てられたのではないかと尋問されたが、関係者を庇うためにあくまで自由党内の改革討議であると否認した[39][45][注 5]。 加えて1885年(明治18年)の大阪事件についても嫌疑の目を向けられ、ふたたび逮捕され8か月間収監された[16][46][47]。免訴処分となったものの、これらを受けて1886年(明治19年)に万次郎は県会議員を辞した。これは同件で入獄となった者が後に大日本帝国憲法発布の恩赦で釈放された際に「志士」と扱われ熱狂的に歓迎されたこととは対照的である[16]。ただしこの年の県議補選により、万次郎は再選されて県会の場に戻った[16][48]。 県会では1888年(明治21年)に徴兵参事員、1890年(明治23年)に常置委員を務めるなど[9][49]、下都賀郡の戸長代表として通算4期を過ごした[2][17][46]。1889年、野木村の第1回村会議員選挙に当選し、当村初の村会議員の1人になっている[4]。またこの年には大同団結運動に呼応し、協議会を開いて条約中止の建白書を提出している[15][50]。 県会で著しい功績があったわけではないが、新井章吾とのコンビは「新井の外務・岩崎の内務」と称賛された[20]。新井・岩崎の両氏は1889年(明治22年)の国会開設の詔を受け、国政に移ることになった。下都賀郡を根城とする彼ら2人の自由党員が国政に進む際、同じ自由党・下都賀出身の塩田奥造は同士討ちを嫌って弟株2人に栃木二区を譲り、自身は栃木四区へ地盤を移した[51]。 国会議員時代1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙において新井とともに栃木県第二区・自由倶楽部から出馬して当選した[19][注 6]。小山駅前で250人あまりを集めて祝宴会を開いたことをはじめ、7月中に間々田村・穂積村・中村でも祝宴演説会が行われた[55]。万次郎は新井と太平山で挙げた祝宴会にて、議会でも新井に同道すると公約した[20]。 1892年(明治25年)の第2回総選挙では自由党から当選するが[23]、議会中に軍艦製造費問題が起きた際に新井と相反し、新井の属する大井派と決別した[20]。さらに、1893年(明治26年)に星亨の収賄疑惑が挙がった際には、星を支持する新井に対して万次郎は星除名を唱えた。このとき自由党脱党の旨を板垣退助に対して書簡として送り、その中で星を取り締まろうとしない板垣に苦言を呈した。星派・板垣派からも距離を置き、同じ志の小林樟雄・菊池九郎・長谷場純孝ら27名とともに自由党を離れた[20][21]。同年12月、自由党から離れた徒党とともに同志倶楽部(のちに同志政社とする)を結成し、万次郎は幹事に就任した[21][29]。同志政社は2年後の1894年(明治27年)に同盟政社と合同して立憲革新党となり、万次郎はここでも幹事を務めた[30]。 1894年(明治27年)の第3回総選挙では新井との連合も考えられたが、上記の事情もあり交渉がまとまらなかった[56]。清廉なイメージの真っ向勝負で選挙活動を行ったが、「金銭と壮士にものを言わせた[57]」田村順之助に惨敗し甲斐なく落選となった[25][57]。 その後は立憲改進党[15]・進歩党[31]・憲政本党[32][33]など進歩派の政党に身を置きそれぞれ幹事などの要職に就いているが、進歩党では1895年(明治28年)夏からの足への疼瘴のため、1896年(明治29年)4月3日に幹事辞任の旨を伝えている[6]。進歩派の政党からの出馬は第3回総選挙以降、第4回[26]・第5回[27]・第6回[28]といずれも新井章吾・田村順之助の2人へ票が先行し、自由党が独占したため落選している。 1902年(明治35年)の第7回衆議院選にも進歩派の郡部候補として目されたが[58]、立候補せずに足利郡・安蘇郡の木村半兵衛に候補者の座を譲ることになった[59]。1909年(明治42年)に木村半兵衛が日糖汚職事件で辞職した際の補欠選挙においても下都賀郡から万次郎を推す声が挙がったが、憲政本党栃木県支部は関田嘉七郎を指名・当選した[60]。 晩年の活動国会を離れて以降も、憲政本党(のちに立憲国民党)に属して遊説・演説を行っている[61][62]。また、1898年(明治31年)に下都賀郡部屋村で鉱毒講和会を開くなど足尾鉱毒事件の被害補償に向け尽力し、田中正造と交流を深め援助した[21][63]。 1911年(明治44年)8月2日午後7時、療養中であった胆石病のため東京市麹町区飯田町(現・東京都千代田区飯田橋)の自邸で死去[22][64][65]。[14]享年60[22]。9月10日に地元の栃木県野木村の自宅で出棺・葬儀が執り行われ[66][67]、佐川野の法得寺に埋葬された[15]。 人物像齢14にして名主見習いの任に就くなど幼少のころから利発・麒麟児と呼ばれたという[21]。温厚誠実の資質は同僚からも尊敬の念を抱かれ[11][22]、議員時代には「良代議士」の声もあった[11]。 大髭を生やした風貌が特徴的で、日本 (1894)は第4回帝国議会衆議院議員の中の三髯(さんひげ)に万次郎を筆頭として選出し、新井章吾・重野謙次郎を並べている[注 7]。万次郎は1884年の加波山事件で拘束される数日前にこの髭を剃り落としており、訊問担当の渡辺警部補にその行為を不審とされている[68][注 8]。 評価斎藤 (1981)は、万次郎を「自由民権家として最後までその節操を貫いた」数少ない人物としており[16]、以下の2つの評価を引用している。 桜新聞の示す「意志の乏しきところ」は加波山事件・大阪事件における振る舞いに表れているのではないかと斎藤 (1981)は指摘している[21]。 一方、柴田 (1901)は塩田奥造と万次郎を「失意の二将」と紹介した[69]。第3回衆院選に落選した万次郎の行動を、第2回衆議院で自由党から進歩派へ翻った立ち回りを前提にして下のように批判し、県会時代における暗躍との落差に嘆息している。
家族・親族
著書編著
脚注
参考文献論文
図書
新聞記事
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