塩田奥造塩田 奥造(鹽田、しおだ おくぞう、1849年(嘉永2年10月[1][2])- 1927年(昭和2年)2月6日[1])は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 経歴下野国都賀郡、のちの栃木県[1]下都賀郡吹上村[2][3][4](現栃木市吹上町)で、郷士[4][5]、大庄屋[5]・塩田嘉門の長男として生まれる[3]。吹上藩の明倫学校で学んだ[3][注釈 1]。 1871年(明治4年)廃藩置県に際して事務取扱となる[3]。以後、吹上外三十二カ村区長、下都賀郡学区取締などを務めた[1][2][3][4]。1880年(明治13年)11月、横堀三子と共に芳賀郡外の総代として国会開設請願書を提出し[4][5]、同年12月、栃木県会議員に選出され[3][4]、1882年(明治15年)7月、常置委員に就任[4]。1884年(明治17年)加波山事件では犯人逃亡幇助の罪で検挙され六箇月入獄した[4]。1886年(明治19年)県会議員に再選され常置委員に就任[4]。その後、同副議長を務めた[3][4][5]。 1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙(栃木県第4区、自由倶楽部)で当選し[3][4][5][6]、以後、第3回総選挙まで再選され[6]、衆議院議員に連続3期在任した[1][2][3]。 1894年(明治27年)9月の第4回総選挙で落選し[3][7]、その後は実業界に転じた[5]。東京火災保険取締役、東京米穀取引所理事、京浜銀行支店長を務めた[3]。1900年(明治33年)ハワイに渡り塩田バンクを設立し、同地にハワイ日本人会を設立して会長に就任した[1][2][3]。バンクを5年間経営したが他者に委託して帰国[5]。1906年(明治39年)東洋製糖 (株) を設立し[3]、1908年(明治41年)玉川電気鉄道取締役に就任し[3]、その他多くの企業の経営に参画した[1][2][3][5]。 国政選挙歴
脚注注釈
出典参考文献
|