岡本太郎記念館

岡本太郎記念館
TARO OKAMOTO memorial museum
地図
施設情報
専門分野 美術館
館長 平野暁臣
事業主体 岡本太郎記念現代芸術振興財団[1]
管理運営 岡本太郎記念現代芸術振興財団[1]
開館 1998年平成10年)5月[2]
所在地 107—0062
東京都港区南青山6—1—19
位置 北緯35度39分40.71秒 東経139度42分56.1秒 / 北緯35.6613083度 東経139.715583度 / 35.6613083; 139.715583座標: 北緯35度39分40.71秒 東経139度42分56.1秒 / 北緯35.6613083度 東経139.715583度 / 35.6613083; 139.715583
外部リンク https://www.taro-okamoto.or.jp/
プロジェクト:GLAM
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岡本太郎記念館(おかもとたろうきねんかん)は、東京港区南青山にある私立美術館。芸術家・岡本太郎の自宅兼アトリエだった邸宅を、没後に改修し記念館としている[1]

概要

岡本太郎記念館には、多くの彫刻デッサンエスキースなどが展示保存されている。1階は使用していた絵具、2階は油絵、彫刻作品などが展示されている。館内の写真撮影は自由である。

岡本太郎記念館を運営する財団法人「岡本太郎記念現代芸術振興財団」は、岡本太郎が病没した約1年後の1997年平成9年)の2月に設立され、記念館は1998年(平成10年)5月[2]開館した。

館長(2代目で兼常務理事)は平野暁臣[3]、財団法人理事長は清水井敏夫(実業家)、理事は構造家・中田捷夫[3]、美術評論家・山下裕二[3]、絵画修復家・吉村絵美留、評議員は関根光才椹木野衣河口洋一郎大谷省吾和多利浩一の全5名、顧問は糸井重里[3]、川崎市長・福田紀彦裏千家千玄室である。かつては阿部孝夫[3](元・川崎市長)、福原義春[3]資生堂名誉会長、故人)も名を連ねていた。

歴史

岡本太郎は1953年昭和28年)より、84歳で没した1996年平成8年)まで42年に渡り、この青山の邸宅に暮らし、各地を巡りながら創作活動を行っていた。

父・一平時代の旧居は1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍・B29による東京大空襲(山の手大空襲)で焼失した。この旧居で両親の一平とかの子と共に長年暮らし、一家はここから1930年代にヨーロッパに旅立っている。なお空襲時は太郎は兵役、一平は岐阜に疎開し同地で没した。住居表示施行前の旧住所表記は「青山高樹町三番地」であった[4]

日本の敗戦後の1953年に再建された建物は、友人の建築家・坂倉準三ル・コルビュジェ弟子)の設計で建てられ、太郎自身の要望により、積み上げたブロックの上に凸レンズ形の屋根の乗った独自の形象をしており、壁には岡本の描くと「TARO」の赤いサインが入っている。1970年(昭和45年)に行われた大阪万国博太陽の塔の構想もここで練られた。

開館時間

春の岡本太郎記念館
川崎市多摩区枡形にある川崎市岡本太郎美術館
  • 10:00〜18:00(入館は17:30まで)
  • 火曜日 休館(祝日の場合は開館)
  • 観覧料
    • 一般 650円
    • 小学生 300円
    • 15人以上は100円引き

脚注

  1. ^ a b c About Us 財団法人岡本太郎記念現代芸術振興財団 岡本太郎記念館のウェブサイト、平成24年3月4日閲覧
  2. ^ a b 岡本太郎年表 岡本太郎記念館のウェブサイト、令和6年8月14日閲覧
  3. ^ a b c d e f 役員・評議員 岡本太郎記念館のウェブサイト、令和6年8月14日閲覧
  4. ^ 『東京の戦前 昔恋しい散歩地図』アイランズ編著、草思社、2004年1月

関連項目

外部リンク