山本藤助 (2代)2代 山本 藤助(やまもと とうすけ、1874年(明治7年)6月1日[1][2][3][4] - 1926年(大正15年)8月16日[3][4][注釈 1])は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・山田。初代山本藤助の娘婿。 経歴鳥取県邑美郡鳥取町寺町(現鳥取市[5]寺町[6])で、旧鳥取藩士[7]・山田頼実の長男として生まれる[1][2][6]。修徳小学校(現・鳥取市立修立小学校)、育英高等小学校を卒業後[6]、京都府商業学校(現・京都市立西京高等学校)に進み[6]、1895年(明治28年)に卒業した[3][4][5][8]。 同年、帝国海上保険会社(現・損害保険ジャパン)に入社[3][4][5][6][8]。1907年(明治40年)6月[注釈 2]、鉄鋼商・海運業を経営した初代山本藤助の未亡人に懇願され、その長女・山本としの入夫となり[1][6]、2代藤助を襲名した[1][2][3][4][6]。家業を発展させ、大阪商業会議所常議員、日本海員掖済会常議員、山本汽船代表取締役、大阪製鉄取締役、南洋製糖取締役、東印度貿易取締役、日本簡易火災保険取締役、実用自動車製造取締役などを務めた[2][3][5][8]。 政界では、大阪市会議員に選出され、同参事会員も務めた[3][4][5][6][8]。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に鳥取県第1区から無所属で出馬して当選[9]。庚申倶楽部に所属し、衆議院議員を1期務めた[3][4][5][8]。この間、千代川改修工事の請願採択に尽力した[6]。 1916年(大正5年)私財を投じて帝塚山学院の設立に参画し、常任理事に就任[3][4][6][8]。また、1918年(大正7年)には鳥取高等農業学校(現・鳥取大学農学部)の設立に際して10万円の寄付を行った[6]。 親族脚注注釈出典
参考文献
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