山口弘豊
山口 弘豊(やまぐち ひろとよ)は、常陸牛久藩の第4代藩主。官位は従五位下、伊豆守、但馬守、周防守。 経歴第3代藩主・重貞には長男が早世した後に男児がなかったため、弟の重治を養嗣子にしていた。しかし、重治は後継者にふさわしくないとして廃嫡され、代わりにその子である弘豊が養子となり、元禄11年(1698年)の重貞の死去により跡を継いだ。享保10年(1725年)には牛久沼干拓工事などで手腕を見せた。また、藩主時代が33年の長きにわたったため、藩政が安定化した時代でもあった。享保16年(1731年)8月27日、病を理由に家督を養嗣子の弘長に譲って隠退し、宝暦5年(1755年)11月23日に死去した。享年72。法号は真竜定淵弘豊院。 系譜父母 正室、継室 側室
子女 養子
|