小塩五郎
小塩 五郎(おしお ごろう、天保元年(1830年) - 1894年(明治27年)7月2日)は江戸、明治時代の本草学者。旧尾張藩士。 生涯江戸時代天保元年(1830年)尾張国名古屋中ノ町[1](現中区錦一丁目下園公園内[2])に尾張藩士小塩親賢の第5子として生まれた[3]。幼名は三千五郎だったが、藩主に三千姫が生まれると、これを避諱して五郎とした[4]。 朝倉某に射術、吉田雀巣庵に本草学を学んだ[3]。吉田家には子がなかったため、安政初年跡継ぎに見込まれて養子となったが、雀巣庵に実子角鞠が生まれたため、小塩家に戻った[5]。小塩家では部屋住に甘んじ[4]、裏長屋で網針、矢の作製、鎧の修繕等をして過ごした[1]。 明治時代1882年(明治15年)7月丹羽修治等が開いた北勢交友社に参加し、博物会へ出品を続けた[4]。 1886年(明治19年)3月15日中ノ町の自宅に三島豪山、大窪安治、久米安政等と博物標本の展示会を開いて随意会と称し、4月8日浪越博物会と改称[6][7]、1887年(明治20年)から愛知県博物館で教育博物会を開催し、愛知県教育博物会へ発展的に解消した[6]。 1890年(明治23年)伊藤圭介米寿記念博覧会に際し上京し、1891年(明治24年)春伊藤圭介と岡山後楽園に旅行した[4]。 1893年(明治26年)7月25日伊藤恭四郎と富士山に採集した際身体を害し[4]、11月2日若き牧野富太郎に伊吹山採集へ誘われるも、中風のため同行できなかった[1]。 1894年(明治27年)7月2日死去し、東区小川町本要寺に葬られ[3]、平和公園に改葬された[4]。法号は総持院薬草日採居士[3]。 図譜
採集採集地は菰野山、伊吹山、恵那山、御嶽山、木曽駒ヶ岳、富士山[3]、養老、湯山、知多[1]等に及び、草鞋履き、尻端折りの姿で、腰の竹筒に酒を入れて採集を行った[1]。また、魚釣りも趣味とした[1]。 動植物の鑑定では尾張本草家でも随一と称され、ミイス(ミスターの意[1])と呼ばれ、自ら三居巣の字を当てて雅号とした[3]。 親族脚注参考文献
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