家鳴家鳴、家鳴り、鳴家、鳴屋(やなり)は、日本各地の伝承にある怪異の一つで、家や家具が理由もなく揺れ出す現象である。 鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、小さな鬼のような妖怪がいたずらをして家を揺すって家鳴を起こしている絵が描かれているが[2]、現代では西洋でいうところのポルターガイスト現象と同一のものと解釈されている[3]。 なお、現代でも温度や湿度等の変動が原因で、家の構造材が軋むような音を発する事を「家鳴り」と呼ぶ。特に建材が馴染んでいない新築の家で起こることが多く、ひどい場合は欠陥住宅として建築会社と家主がトラブルになることもある[4]。 伝承
『吾妻鏡』における竈鳴り『吾妻鏡』安貞2年(1228年)6月6日条に、御所の贄殿[6](にえどの)において、「竈(かまど)鳴りの怪異(けい)」があったと記述されている。小規模ながら、これも家鳴りに類する記述の一つであり、中世前半から認知されていた事が分かる。 『日本書紀』における記述『吾妻鏡』のような怪異としての呼称は記載されていないが、類した現象自体はさらに古く、『日本書紀』天智天皇10年(671年)12月17日条の後に、「宮中の大炊寮に八つの鼎(かなえ、ここでは釜を指す)があったが、それがひとりでに鳴り、ある時は一つ鳴り、ある時は二つ、ある時は三つ一緒に鳴って、またある時は八つ共一緒に鳴った」と記述されている。このように古くは権力者の調理場において不吉な前兆として記録されている(現象だけを見れば、飛鳥時代から続く古い部類の怪異である)。 『続日本紀』における記述『続日本紀』宝亀11年(780年)6月28日条に、伊勢国の言上として、「16日、己酉の巳時(午前10時頃)に鈴鹿関の内城で太鼓が一度鳴った」と記され、同年10月3日条では、「左右の兵庫の鼓が鳴った。その後、矢の飛ぶような音が聞こえ、その響きは内の兵庫にまで達した」と記述されている[7]。 天応元年(781年)3月26日条には、美作国の言上として、「12日未の時の三点(午後3時)に苫田郡の兵器庫が音を立てて震動した。四点(3時半)にも同じように音を立てて震動があった。その響きは大きな雷が次第に轟くようであった」。また同条、伊勢国の言上として、「16日の牛の時(正午前後)に鈴鹿関の西側中央の城門の太鼓が自然に三度鳴った」。 4月1日条、「左右兵庫の兵器が自然に鳴った。その音は大石を地面に投げつけるようであった」。 5月16日条にも、伊勢国の言上として、「鈴鹿関の城門と守屋4棟が14日から15日まで、自然に屋鳴りして止みませんでした。その音は木で建物を衝くような音でした」と細かに報告されている。『日本書紀』や『吾妻鏡』が器物なのに対し、建物の家鳴りであり、古代から見られる。 12月26日条では、「兵庫司の南院にある東の庫がなった」と記される。 脚注
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