宍喰町
宍喰町(ししくいちょう)は、徳島県の最南端に位置した町。90%以上が森林を占め、太平洋に面しており、気候は温暖で多雨である。 2006年3月31日、海部郡の2町と対等合併し、海陽町となって消滅した。 地理隣接している自治体名称「宍喰」の由来宍喰(ししくい)は脚咋(あしくい)の転訛とされる。脚咋は「葦(イネ化の植物)をつくって主食とした住民」。履中天皇の時代に大和朝廷から鷲住王(わしずみおう)がこの地に遣わされ、宍喰川下流の平野部を利用した農耕が近隣地域に先立って発達した事による。時代とともに狩猟に纏わる宍(カン、しし、にく)が使われるようになり、鎌倉時代以降は宍喰と呼ばれるようになった。 歴史原始古代原始古代の宍喰地方では宍喰川流域の堆積地帯や風雨から逃れるために山裾などに居住し、狩猟や漁労、採集を糧に暮らしていたようである。かつては入り江であった板取地区や竹ヶ島地区から紀元前200年(弥生時代)ころの石斧が出土している。 古墳時代5世紀に大和朝廷から鷲住王(わしずみおう)が脚咋(あしくい)に派遣され近隣を治めた。このころに稲作が伝わり、現在の久保西・正梶・馳馬地区などに集落を形成していった。 中世大化の改新(645年)をへて中央集権体制下に入った。郡県制が敷かれ、脚咋の地はを宍喰庄、海部郷に別れた。宍喰庄は1135年以降は鳥羽院の御領をへて1216年に高野山の蓮華乗院に寄進され寺領荘園になる。 本土への年貢や堺地方への木材の出荷を通じて、貨幣経済が発展した。また、海部刀などの刀鍛冶が発展していき、鎌倉時代には宋及び高麗との交易を行った。(現在祭祀行事の際に曳かれる関船という山車はこの頃の貿易船を模したものである。) 鎌倉時代から室町時代が終わり、戦国時代になると国司や郡司、荘園を治める荘官やその下で名田を治める名主が勢力を強め、中央の命令に従わなくなっていく。 宍喰地方では鷲住王を祖とし、藤原姓を名乗る一族が宍喰城・愛宕山城・祇園山城などを築き、この地方を治めた。また、近隣の牟岐城・浅川城・野根城主とは同族で、高知県の安芸氏とも姻戚関係を結んで地盤を固めていた。 1578年土佐国を平定した長宗我部氏に侵攻され、城はことごとく落城する。この際、多田民部という武将が切腹し、現在宍喰川河畔にある「民部岩」として2012年現在も残っている。 豊臣秀吉を主とする四国征伐が行われ、部将である蜂須賀氏が阿波国を治めるようになりその統治下に入る。 近世徳島藩政下では日和佐、後に海部に郡代官所が置かれ、宍喰では各村の庄屋と役人が年貢の徴収や政に当たった。 本町は土佐国との国境にあるため、国境警備目的の関所や鉄砲役を置いた鉄砲小屋、狼煙台、街道沿いの治安維持と旅人の宿泊施設として駅路地が置かれた。 また、各地では1582年の太閤検地を始め、検地、戸籍調査が行われ、租税が徴収された。 慶長の震潮(なえしお、1604年)、宝永の震潮(1707年)、そして安政の震潮(1854年)の震災を通じ、農民は逃散(ちょうさん)が起こるほど窮乏することもあった。 近代
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