安芸氏安芸氏(あきし)は、土佐の国人領主。土佐国東部の安芸郡を支配したが、戦国時代に長宗我部元親によって滅ぼされた。 概要安芸氏の出自は、通説では壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)に味方した結果、土佐に配流となった蘇我赤兄の子孫が土佐の東端である安芸郡などに拡大して台頭し、国人になったものと伝わる。ただし別説も多く[1]、詳細な出自に関しては不明である。 『南路志』によれば、「安喜八幡」の棟札では安芸氏は皆橘姓を名乗り、橘をもって家紋としており、また、『阿波古城記』に「安芸殿、橘氏」とあるため、橘氏であるという可能性も存在する[2]。 「安芸氏系図」によれば、蘇我赤兄の子は「惟宗行躬」とされるが、安芸氏が惟宗氏とする伝承が存在するのは、長宗我部氏が秦氏を名乗ったからであると考えられる[2]。 安芸氏の先祖と思しき、長保2年(1000年)に補陀落渡海を行なった土佐国安芸郡大領・蘇我兼広やその息子・蘇我兼実や、長元元年(1028年)に土佐権介として見える曽我部如光、永承5年(1050年)に土佐介として見える曽我部正任らは、蘇我氏ではなく蘇我部の末裔であると考えられる[3]。 『平家物語』や『源平盛衰記』には、「土佐国の住人安芸郷を知行しける安芸大領実康」や、その子・安芸太郎実光(真光)、次郎某、「阿波国住人安芸大領という者が子」・安芸太郎時家の名前が見える。 『古城伝承記』によれば、安喜備後守国虎は蘇我赤兄の末裔で、平家滅亡の時に平教経と組んで入水した「安喜太郎」の子孫であるという。 室町時代に強勢となった安芸氏は、香美郡大忍庄に侵出して勢力を拡大した。安芸氏が勢力拡大に成功した背景には、安芸川という交通の要衝を利用した貨幣経済の発展に、土佐という土地経営を巧妙に生かして成長したのが要因といわれる。永享11年(1439年)、当主の安芸元実(もとざね、摂津守)が摂津国内で戦死(大和永享の乱の影響によるものか)し、分家の畑山氏より安芸元信(もとのぶ)が養嗣子に迎えられた。しかし、応仁の乱で東軍(細川勝元方)へ加勢した元信とその嫡男の元康(もとやす)が共に戦死するなど苦境に見舞われる。元信・元康の死後は再び畑山氏より元信の実弟である安芸元盛(もともり)が当主に迎えられて家の苦境を乗り切るも、以降の勢力拡大策は停滞することになった。とはいえ、戦国時代には土佐七雄の中でも「安芸5000貫」と称されるほどの土佐東部を代表する大国人として君臨し、なおも強勢を保った。戦国時代の大永6年(1526年)には隣接する七雄の1つである香宗我部氏を破って勢力を拡大し、さらに元盛の曾孫・安芸国虎の代に国内の名家である土佐一条氏と姻戚関係になって全盛期を迎えた。 しかし香宗我部氏を破って勢力を拡大したことから長宗我部氏との緊張関係に陥ると、永禄年間の初期、国虎が長宗我部元親の属領である香美郡夜須に侵入したことにより両家は敵対する。当初は東の安芸氏よりも、北の本山氏攻略に力を傾注していた元親に対し、一条兼定からの援軍を得た国虎が優勢で一時は元親の居城・岡豊城を落城寸前に追い込むなどしたが、土佐国内の動乱を憂慮した一条兼定による安芸氏・長宗我部氏の和睦を進めたため、一時的に両家は和睦した。だが和睦から5年後の永禄12年(1569年)4月、国虎は一条兼定の援軍を得ることで和睦を破棄して元親と再度敵対する。だがこのときの元親は本山氏を服従させて土佐中部を完全に制圧しており、すでに力関係は完全に逆転していた。7月に安芸軍は矢流川合戦(もしくは八流の戦い)で衆寡敵せず大敗。支城の穴内城や新荘城なども長宗我部軍によって落とされ、国虎は安芸城に籠もった。だが譜代の家臣である横山紀伊守らが元親に内応して安芸城に招き入れたため、遂に力尽きて国虎は自害。その遺児である千寿丸(弘恒)も三好氏を頼って阿波に落ちたため、安芸氏は滅亡した。 その後、安芸氏の旧領は元親の実弟・香宗我部親泰が支配し、元親の四国征服における原動力となった。 歴代当主(室町時代)室町時代の安芸氏は土佐守護を兼ねる細川京兆家の麾下にあり、代々京兆家当主より偏諱の授与を受けている。
系図 |