安川寿之輔
安川 寿之輔(やすかわ じゅのすけ、1935年(昭和10年)2月21日[1] - )は、日本の市民運動家、社会思想史研究者。専門は近代日本社会(教育)思想史。名古屋大学名誉教授、不戦兵士・市民の会副代表理事、日本戦没学生記念会元事務局長、イラク派兵違憲訴訟の原告(東京地方裁判所)[2]。韓日平和100年市民ネット共同代表[3]。<声明>「韓国は「敵」なのか」賛同者[4]。 経歴
安川・平山論争→詳細は「安川・平山論争」を参照
2001年(平成13年)4月21日の朝日新聞に掲載された安川の論説「福沢諭吉 アジア蔑視広めた思想家」[7]に、静岡県立大学国際関係学部の平山洋が反論「福沢諭吉 アジアを蔑視していたか」(5月12日付同紙)[8]を掲載したことで、「安川・平山論争」が始まった[9]。 同年5月21日に安川は慶應義塾大学で講演を行い、講演資料で「福沢論争 批判は事実に基づいて」という再反論を掲載した[注釈 2]。この資料に対して、5月30日に平山は再々反論を行った。さらに、5月30日から6月26日の間に、安川と平山との間で往復で3回の意見交換が書簡で行われた[11]。 「福澤諭吉協会」との関係2001年(平成13年)10月、安川は『福澤諭吉書簡集』月報5で、『福沢諭吉年鑑』『福沢手帖』の既刊全冊の一括販売の案内を知り、両誌とも全集そろいで入手した[12]。さらに、その後に発行された両誌の続刊の入手を希望して、2002年(平成14年)8月に、両誌の続刊の入手方法を福澤諭吉協会に問い合わせたところ、福澤諭吉協会への「入会案内」がもらえたので、さっそく入会を希望して指示された会費を送った[12]。そして、両誌の続刊と同封された同年8月13日付けの理事会の公印の押された「普通会員」承認の文書を受け取った。しかし、同年8月23日付けの理事長の手紙において、「入会申し込みについては理事会の承認が必要となっているので、秋の理事会を経て返事すべきであった」という謝罪と説明があり、「入会申し込みは保留扱いにするとして、会費も返金されてきた」[12]。その後、同年10月31日付けの手紙において、「去る十月二三日開催の理事会において、入会の審査を行いましたが、残念ながら貴殿の入会を承認するには至りませんでした」という入会不承認の返事が送られてきた[12]のみで、福澤諭吉協会への入会は理由を明確にしないまま拒否された[注釈 3]。 「丸山諭吉」神話説法政大学法学部教授の飯田泰三は、丸山眞男が福澤諭吉の思想を研究する際に、福澤を市民的自由主義者と認識し、福澤の文章に中に自分自身の思想を投影するように一体化して福澤の文章を読み込んでいった研究方法を「丸山諭吉」と呼んでいる[13][14]。平山は「飯田は、丸山が市民的自由主義者としての福沢と自身とを重ねている、という意味で「丸山諭吉」という言葉を造語したのである。福沢を市民的自由主義者として捉えること自体は当然の前提としてあり、その上で丸山は福沢の文章の内に自分自身を投影させている、という意味である」と説明している[15]。 一方、安川は福澤を侵略的絶対主義者と認識し、丸山は福澤が侵略的絶対主義者であることを示す史料を無視し、自身の思想に都合のよい史料のみを選んで読み込んでいったと主張し、そのような丸山の研究方法により形成された虚像を「丸山諭吉」神話と呼んでいる。そして、安川は2003年(平成15年)に『福沢諭吉と丸山眞男』(高文研)を出版し、「「丸山諭吉」神話を解体する」という副題を付けている。高文研の『福沢諭吉と丸山眞男』のサイトでは、「「典型的な市民的自由主義」の思想家・福沢諭吉。これが丸山眞男が造形し、確立した福沢像だった。(中略)丸山の福沢像は、こうした事実を完全に無視し、福沢の著作の都合のいい部分だけを取り上げ、勝手な読み込みによって造りあげた虚像だった」と解説されている[16]。 平山は、福澤を市民的自由主義者とする認識が丸山の研究以前に田中王堂・高橋誠一郎・高橋義雄の著作に既に存在していたと指摘し、「丸山は、福沢を市民的自由主義者と理解する研究史本流の半ばに位置してはいても、決してその源泉にいたわけではない」と説明している[17]。 『東日流外三郡誌』起源説福澤諭吉著『学問のすすめ』の冒頭にある、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という文章は、アメリカ独立宣言からの翻案であるとするのが最も有力な説である[18]。 一方、安川は『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の366-371頁において、この文章は『東日流外三郡誌』が起源であり、福澤はそれを盗用したものであると主張した。その理由は、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という思想が、福澤のアジア蔑視思想とそぐわないというものであった。この『東日流外三郡誌』起源説は、もともと元昭和薬科大学教授の古田武彦が『真実の東北王朝』(駸々堂出版)で唱えている説であるが、安川は369頁において、この「古田説を基本的に支持する意向を表明」している[19]。さらに、2006年(平成18年)8月30日に安川は京都のアバンティホールで古田と対談をおこない、改めて古田説を支持する見解を表明した[20]。また、2006年(平成18年)12月に発行された古田武彦直接編集の雑誌『なかった 真実の歴史学』第2号においても、安川 (2006b, pp. 366–371)の再録である「論考・エッセイ 「天は人の上に人を造らず」をめぐって」が掲載された[注釈 4]。 静岡県立大学国際関係学部助教の平山洋によると2007年(平成19年)2月19日の平山宛ての私信において、安川は古田説への支持を撤回した[25]。さらに高文研刊行書籍の正誤一覧に掲載した正誤表において公式に古田説への支持を撤回した[26]。 出前講演安川は、日本国内で交通費を受領できるのであれば、福澤諭吉を批判する講演を「出前講演」として実行している[2]。中国の大学には、自腹で交通費を払って福澤諭吉を批判する講演を2003年(平成15年)から毎年続けている[27]。 講演ビデオ2010年(平成22年)8月28日に山梨県北杜市小淵沢町で行われた「こぶちさわ9条の会」主催の「出前講演」はYouTubeで視聴できる。 動画「1万円札から福沢諭吉の引退を勧告する」のリンク
『週刊金曜日』誌上での論争2010年(平成22年)8月27日、『週刊金曜日』は「韓国「強制併合」から100年」と題する特集を組んだ。安川は「虚構の「福沢諭吉」論と「明るい明治」論を撃つ」という記事を掲載し、「戦後のアカデミズムに君臨した丸山眞男と、国民作家の司馬遼太郎。この二人による作為的な歴史偽造が厳しく問われねばならない」と主張した[28]。この記事に対して、慶應法学部卒の佐高信は同年9月10日発行の同誌上に「風速計 敵から見たら」を寄稿し、「安川は丸山と司馬遼太郎を一緒にして批判している」と指摘し「私は安川に “天上天下唯我独尊居士” というニックネームを進呈したいくらいだ」と述べた。さらに、「悪名高き「脱亜論」にしても、福沢はそれを唱えながら、朝鮮独立運動のリーダーである金玉均を、自らの身に危険が及ぶのを覚悟で助けた」と福沢を擁護した[29]。佐高の反論に対して、漫画原作者の雁屋哲は同年10月1日発行の同誌上に「論争 議論は理性的に」と題する反論記事を寄稿した[30]。 著作単著
共著
編著
論文
記事
中国語訳
韓国語訳
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目関連人物外部リンク |
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