姫田忠義
姫田 忠義(ひめだ ただよし、1928年9月10日 - 2013年7月29日[1])は、日本のドキュメンタリー映画監督、映像民俗学者。株式会社民族文化映像研究所(民映研)名誉所長。特定非営利活動法人「地球ことば村・世界言語博物館」顧問。 中央大学経済学部名誉教授で中国近現代史研究者の姫田光義は弟。長男はフルート演奏家の姫田大。次男の姫田蘭はミュージシャン、プロデューサー、民族文化映像研究所ブログ「民映研ジャーナル」担当。 略歴兵庫県神戸市和田岬に生まれる。父はガス会社の工員であった。兄や姉は高等小学校どまりであったが、国鉄で働いていた9歳年上の兄の援助で、1941年に兵庫県立第四中学校に進学。 1944年に志願して予科練に入隊。三重海軍航空隊から、高知県の浦戸海軍航空隊に移る。しかし飛行兵でありながら、飛行機不足のため、一度も飛行機に乗ることはなかった。1945年、戦局が悪化すると特攻隊にも志願し、人間魚雷「回天」での突撃候補となるが、そのまま敗戦を迎える。 戦後、沖仲仕をしながら、旧制神戸経済専門学校(新制神戸商科大学の前身、現在の兵庫県立大学)に通学。卒業論文は人間の価値を哲学的に考える「価値論」をテーマにしたが、書きあげることができず、教授の温情で卒業を迎えられた。 住友金属工業に入社し、尼崎工場の労務課に配属され、のちに大阪の本社に移る。なお、大阪本社時代の上司は与謝野鉄幹の息子であった。社内の演劇活動に誘われて参加し、演劇に熱中する。そのため、住友金属工業を5年で退社。 1954年に上京して、八田元夫が主催していた「演出研究所」(のち「演出劇場」)に、演出家志望として入る。上京から半年後、「日本読書新聞」に掲載されていた民俗学者宮本常一の記事に興味を抱き、日本常民文化研究所の宮本を訪ねて、その人間的魅力に圧倒されて師事する。 様々な職業につきながら、劇団活動を続けるが、その人間関係に嫌気がさし、演出研究所を3年で退団。NHKの人形劇「チロリン村とくるみの木」の演出を担当する。この時、人形遣いの水田外史と知り合う。 1958年、宮本常一から薦められた対馬に渡り、ほとんど資金がないまま、15日間にわたって村々を訪ね歩く。この際に出会った60歳の老人から、父親の借金を一生をかけて返済した話をされる。「わしは、あんたにこの話をするためにいままで生きてきたようなものだ」と言われて衝撃を受け、この言葉が以降の活動の原点となる。その後は教養番組のシナリオライター業に従事。1961年にはカメラマンの伊藤碩男(のちに民映研の創立に参加)とともに、再度、対馬を訪れ、人々の姿をフィルムに撮影する。 1965年から1966年にかけて製作された、宮本常一が監修をつとめたテレビドキュメンタリー「日本の詩情」の取材・脚本・構成を担当。日本各地の村々を取材して周り、日本列島の多様性に目覚める。その後も、宮本主催の雑誌「あるくみるきく」の取材などで、山村文化に注目して日本中の山々をめぐり、また沖縄やアイヌの人々などを訪ね歩く。 1968年、アイヌ文化研究者の萱野茂と出会い、アイヌの深い精神文化を教えられて感銘を受ける。その後、萱野の著書執筆への協力活動や、萱野のアイヌ文化復興活動を映像におさめるなど、生涯にわたる交流を続けることになる。 1968年〜1970年には初の映画監督作品として、宮崎県の山村での、イノシシの首を神にささげる祭りを記録した「山に生きるまつり」を製作。この際から、カメラの伊藤碩男とともに、「製作担当」として小泉修吉(やはり、のちに民映研の創立に参加)が同行するようになる。 以降、日本各地に残る貴重な民俗文化(自然に依拠した人間の精神文化である「基層文化」)を映像に残し、100本を超える作品を制作。主な作品に、「アイヌの結婚式」(1971年)「イヨマンテ-熊送り」(1977年)「椿山-焼畑に生きる」(1977年)「越後奥三面-山に生かされた日々」(1984年)「越後奥三面第2部-ふるさとは消えたか」(1995年)など。国内外で数々の賞を受賞し、海外でも高く評価されている。撮影時にはすでに「行われなくなっていた」行事や技術等については、かつての体験者に依頼し、復元してもらったものを映像化した作品もある。その作業をきっかけに、途絶えていた伝統が復活した例も多い。 1975年、フランスの人類学者ジャック・ルフィエが「アイヌ文化研究」のため来日したため、面会して様々な日本の伝統文化の魅力について語り、意気投合する。1977年から姫田もフランスに渡り、フランス領バスク、北カタルーニャ、オクシタニア地方などの南フランスの固有文化について、コレージュ・ド・フランス形質人類学研究所と、共同研究を行った。 1975年から師の宮本とともに、山口県光市での村﨑義正らの「猿まわし復興」活動にも関わり、その調教の記録を「周防猿まわし」として映像化した。 1976年には「株式会社民族文化映像研究所」設立。1981年からは民族文化映像研究所内で、その映像を定期上映する活動「アチック・フォーラム」を開始した。 1980年には、ダム計画で消え行く可能性があった、新潟県岩船郡朝日村の「マタギの里」として知られた「奥三面(おくみおもて)」集落を訪問。狩猟、焼畑、川漁、山菜・木の実採集などの日本人の古くからの営みのほとんどが行われていることに感動し、翌年から村の暮らしを詳しく記録して映像化した(なお、「奥三面ダム」建設のため、1985年秋に村は閉村。2000年10月に、集落の跡地は水面下に消えた)。 2003年から「日本の姿」シリーズとしてビデオ化・DVD化を行っている。 1998年、日本生活文化大賞個人賞を受賞。 2006年、伝統文化ポーラ賞優秀賞を受賞。 2007年、日本建築学会文化賞を受賞。 「民族文化映像研究所」が団体として、1984年度の日本映画ペンクラブ賞、2000年に文化財保護功労者表彰団体受賞。 2011年4月、日本映画大学特任教授就任。 2012年6月、民族文化映像研究所所長の職を退任、名誉所長に就任(代表取締役社長 小原信之)。 2013年7月29日、慢性閉塞性肺疾患のため死去[2]。84歳没。 映画作品
ビデオ作品
DVD(一般向け販売)
テレビ番組
他多数 著書
編著
他に、民族文化映像研究所が発行のシナリオ、パンフレット等多数。 関連DVD
脚注
関連項目
外部リンク
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